興旧山歓喜院大森寺
  本 尊:阿弥陀如来(恵心僧都作) 尾張二代藩主徳川光友公生母歓喜院墓所

本堂 2015年(平成27)11月8日落慶法要が行われた。
『尾張名所図会』この伽藍配置に再建された。
大森寺
興舊山深積 翠濃簫然物
象感心胸古 墳猶見風雲
氣不怪當年 産巨龍
        鈴木真庵

梅の花そぞろ 咲こむ夕東風
雨の匂はぬ 里なかりけり 
        至清堂

山門 1974年(昭和49)道路拡張工事のため約9m北へ後退した。
左の潜り戸が大きいのは帯刀する刀の邪魔にならないためと言われる。

尾張徳川家と徳川一門の菩提寺で構成する尾州御寺(びしゅうみでら)の一つ。尾張では尾張徳川家の菩提寺徳興山建中寺(名古屋市東区)、初代藩主義直公の生母お亀の方を祀る宝亀山相応寺(名古屋市千種区)に次ぐ格式がある。
尾張二代目藩主徳川光友公は初代藩主義直公の長男。家康の孫に当たり新陰流を会得し書画にも秀でたと言われ初めは光義(みつよし)を名乗った。
光友公の生母歓喜(かんぎ)院乾(いぬい)の方(お尉<じょう>の方)は1634年(寛永11)2月12日に逝去。1637年(寛永14)江戸小石川伝通院(東京都文京区)に葬られましたが、その後1661年(寛文元)6月、生地大森に遷座され、信誉大龍(しんにょだいりゅう)上人を開山とし故郷のこの地に大森寺(だいしんじ)が創建された。
歓喜院乾の方は大森の百姓庄助または甚兵衛の娘「お慰(じょう)」と言い、身分違いのため吉田家の養女としてお城に上がり公の側に仕え1625年(寛永2)7月29日男子、後の光友公をもうけられた。
※歓喜院の出自には古書では「尾州知多郡産吉田氏娘」とある。知多郡産とあるのは不明。
※徳川光友 1700年(元禄13年)10月16日歿 76歳 戒名:瑞龍院殿天蓮社順譽源正大居士


歓喜院は力強い女性として二つの物語が伝えられている。
その一:藩主義直公が水野山での狩の帰途、大森村を通りかかったときに、臼で麦をついていた村娘が藩主の通行に気づき、行水中の父を盥(たらい)のまま運んだという力持ちの女に遭遇。この様な力持ちの妻を得たればきっとりっぱな後継ぎを産んでくれるであろうと城に迎えたと言う。
その二:江戸時代後期に著された随筆集『袂草(たもとぐさ)』に藩祖義直公が御鷹の折り、大森村にて手負いの猪が出てきて義直公を目がけ駆けて突進してきた。その時民家より飛び出した女がそれを追い払った。その勇気、男子にも勝ると深く感じ後日お抱えになったと言う。

これ等の物語は大正時代に記された『続尾三婦女善行録』などに同類のものが掲載されていて、それ程古いお話ではなく、光友公の生母歓喜院乾の方と守山をつなぐため創作と思われる。

義直公の正室は高原(こうげんいん)院(春姫)。
父は紀州藩初代藩主浅野幸長(よしなが)、母は正室の池田恒興の娘。しかし春姫は病弱で子を成さぬまま1637年(寛永14)35歳で死去。義直公は実直な方で側室を置かなかったが尾張徳川家の存続のため側室を迎え光友公をもうけたといわれる。

※袂草:尾張藩の禄150石の藩士、朝岡宇朝が著した随筆集。
※光友公も力持ちで、書院の手水鉢が重くて動かせずに困っていた役人に代わり自らが直してしまったと言う話しも伝わっている。


荘厳な伽藍も1875年(明治8)の火災にて本尊・山門・鐘楼を残し焼失。建中寺(名古屋市東区)の塔頭寺院正信院本堂を移築し仮本堂「明照殿」(現奥の院)としたが、1891年(明治24)の濃尾地震によりまたもや大破した。これ以後二十世善誉上人以後二十二世徳誉孝善尼まで尼寺となる。現住職は二十六世観譽(かんよ)上人。
現在の堂宇は2015年(平成27)11月8日、開創350周年を迎え火災により焼失した本堂などを約140年を経て『尾張名所図会』に描かれている江戸時代創建時の配置と同じに再建され、落慶法要には尾張徳川家二十二代御当主徳川義崇公御臨席のもとに行われた。
これにより焼失後南向きにあった本堂・中門は本来の東向きとなり、中門の額「興舊山」(舊は「旧」の旧字)は光友公の手によるもの。また大門から入れるのは歓喜院乾の方養家吉田家と養育係を務めた高松家のみで一般は側門などを使用した。
歓喜院の墓所は本堂裏の墓地にあるにある。

大森寺はかつて多くの寺領が寄進され、東嶋・西嶋・中嶋・新田嶋の四つの集落と上野村と今村を併せ300石、39,000坪と広大な寺領を擁し、総門は南に900m程の矢田川堤にあり、瀬戸街道を跨ぎ境内の山門(1661年<寛文元>創建時の物)まで両脇に白壁の塀と松を配した大森寺参道が整備されていた。しかし明治維新後に寺領が没収され、現在は境内地とその周りのみとなった。
また『鸚鵡籠中記』を記したお畳奉行朝日文左衛門は大森寺と深い関係にあり、訪問回数は22回に及び、また大森寺住職の文左衛門邸訪問も12回に及んでいる。

※寺宝として江戸時代の宮廷人竹屋三位光兼筆の
 「たやすなよ大森寺の鐘の声たとへこの世はかはりゆくとも」の軸がある。


二代藩主光友公は大森寺同様郊外へ通じる主要往還(街道)沿いに多くの大型寺院を建立・再建した。これは一説には尾張藩危機の時の藩主の脱出用砦的役目を負っていたという。
大森寺は城下から瀬戸を抜け三河から信州へ通じる街道沿いにあり、同様中山道から木曽へ通じる通じる下街道沿いの瀬古地区に光友公が再建した西天山妙行院石山寺があり、同様隣の愛知県春日井市大泉寺町には光友公のお守役、小野澤五郎兵衛により賜恩山退休(たいきゅう)寺が開かれ寺内竹藪には堀跡もある。


写真上左 歓喜院乾の方の宝篋印塔
戒名:歓喜院殿花林紅春大禅定尼
真上上右 光友公御真筆山額
写真下左 鐘楼、右下は鐘を突く時に使用する数を覚える玉。
現在は除夜の鐘のみがつかれる。