●守山区の条里制






写真
:1980年代(昭和50)小幡地区の航空写真。未だ条里制地割の面影がある。
地図上:同地区の1940年(昭和15)頃の地籍図。
地図下:大森附田、中町田付近の地籍図。中町田は本来「長田」にて条里制地名を示していた。

区内の条里制
近隣の条里制の痕跡は庄内川中・下流域、その支流矢田川一帯に多く残っていて、矢田川右岸上流の瀬戸市幡山・品野地区、尾張旭市印場・稲葉・三郷地区、庄内川中流春日井市松河戸・勝川地区など碁盤の目のような条里制の地割が残り、現在でもその遺構が街並みに見られる。
区内での条里制遺構は志段味・吉根・大森・小幡・川村・瀬古・幸心・守山・牛牧村と守山の各旧村々に見られ、1980年代(昭和50)小幡地区の航空写真には未だ条里制地割の面影がある。
また大森・小幡地区の地籍図にはその痕跡が今も見られる。

条里地名と思われる旧小字名
上志段味地区:二反田・六反田
吉根地区:三反田・四反田
大森地区:附田・中町田(長田)・五反田・六反田
小幡地区:大坪・一之坪・三反田・五反田・六反田・八反田
瀬古地区:高坪 など
守山地区:八反田(大森垣外村)、同地区は早くから開発が進み条里制の地割りの多くが消滅したがかつてはその地割が見られた。

正倉院文書尾張国正税帳の729年(天平元年)によれば、山田郡の正税は穀(こく)で2万8264石1斗5升、頴稲(えいとう・刈り取って稲穂が付いた状態の稲)で3万9059束6把8分とあり、皇后宮職の封戸とか、奈良京の工費に充てられている。

条里制では耕地を6町(654m)間隔で縦横矩形に仕切り、横(東西)の列を「条」として、縦(南北)の列を「里」とした。
この1里内をさらに縦横6区画(6×6=36等分)に仕切りこの区画約109m・60歩(ぶ)を1町とし「坪(坊)」とよんだ。坪の地割型には幅6歩・長さ60歩の平行式(長地型)と、幅12歩・長さ30歩の千鳥式(半切型)に大別され、1〜36と番号がふられた。
「坪」はさらに10等分され「段(反)」と呼びこの「坪」が基本単位となる。
※現在の「坪」とは異なる。

このことにより〇国〇郡〇条〇里〇坪と言うように土地の表示が明確になった。

※現在でもこれらは条里制地名として各地に残っている。
※この東西南北は地形により正確な物とはならない事がある。

配分は、男六歳以上の公民に2段(反)、女はその3分の2、1段(反)120歩。家人や奴婢(ぬい)にはそれぞれその3分の1が配分された。また耕地は死亡後は返却しなければならなかった。
半折型は人力による耕作型であり、長地型はその変形で中世以後牛馬による耕作によって新たに生れた地割型だと研究者はいう。
愛知県下の多くの条里制は長地型が多いが、上志段味地区には半折型もある。


※中国古代王朝周のころ、その実施においては不明ではあるが農地の理想的土地均分制を説いた井田制(せいでんせい)がある。日本の条里制もこの制度を取り入れたというがその時期は明確ではない。
※条里制は本来連続して方形の規格が続くが、河川の流路の変化、丘陵部など地理的に無理な所などには不連続な小さな条里制も有り、郡の境や耕作に不向きな所など唐突に角度を違える場合もある。

条里制について
条里制がいつの時代から取り入れられたかよく分かっていないが、乙巳の変後の大化の詔で「公地公民制」がうたわれ、701年(大宝1・飛鳥時代末)に「大宝律令」が制定され、土地は国家のものとし、民に口分田を与え田租など納税の義務を負わせた「班田収授法」が施行された。
口分田は一代限りで死後は返納しなくてはならず、その不満を解消するため723年(養老7・奈良時代)には三代まで土地の私有を認める「三世一身法」。743年(天平15)には耕した土地はその人のものになる「墾田永年私財法」が制定されると「公地公民制」の理論は崩壊し、またこの「墾田永年私財法」に条里制の基を見るといい、この「墾田永年私財法」により土地の私有化は加速し「荘園」が発達した。

荘園はこれにより口分田から逃げ出した人々を地元有力者が雇い農地を広げ新しく領地とした。この荘園を「自墾型荘園」と呼び国への納税の義務を負っていた。その後これら荘園主は税から逃れるため納税の義務など緩和されていた力ある寺社・貴族・豪族などに荘園を寄進し税から逃れる「寄進型荘園」が急速に発達した。

条里制は以前より耕作地として拓かれた土地に存在していたといわれるが、「墾田永年私財法」が施行された後、農政のため土地の画一化が必要となり制度が施行されたのではないかと思われる。
平安・室町時代になると荘園の力はますます強くなり、一方律令国家としての国の力は弱まり条里制は荘園(山田郡・山田荘頁参照)管理のための地割として機能した。

やがて荘園が衰退し太閤検地(1582〜98年/天正10〜慶長3年)が実施された以降、条里制は制度的にはなくなり一部の地名として残るのみとなったが、耕作において都合のよい地割である条里制は耕地として残存した。
しかし近世以降は条里制に縛られることなく新田開発がなされ、明治以降は大掛かりな土地区画整理事業が行われ、条里制は見られなくなった。
現在見られれる条里制遺構はこの様に古くからの土地形態の歴史的遺産である。

●尾張旭市・印場中央公園の
 区画整理前の地割り「条里制」解説板
※愛知県尾張旭市東印場町三丁目14-1
 尾張旭市印場地区は守山区大森中町田地区の東方に近接し、
 条里制地割りとして同一の並び上にある地区。

【条里制案内板より】
印場地区には区画整理前まで東西約11m×南北約109mの短冊形をした地割りが見られ「条里制」のなごりと考えられていました。
条里制は、六歳以上の男女に農地が与えられ、死後にはそれを返還するという奈良時代の班田収授法を契機に広まった地割り制度ですが、班田収授制度の崩壊後も土地管理の地割りとして採用されており、なかには中世を起源とする条里制もあります。
印場特定土地区画整理事業の前に行われた発掘調査の結果では、印場の条里制がいつ頃造られたのかはわかりませんでしたが、洪水などで区割りが流された後にも踏襲して畔を作り直し、条里制の地割りが伝統的に守られていたことがわかりました。また、市内には条里制との関係を示す塚坪、二反田(印場地区)、五反田(新居地区)、六反田(三郷地区)などの地名が残っていました。
昭和40年代まで、市内の印場・稲葉・三郷地区、名古屋市の大森・小幡地区、瀬戸市の幡山地区などにも条里制を見ることができましたが、都市化や農地の改良、区画整理事業に伴ってその姿を消しています。 尾張旭市教育委員会

◇近年、小幡山脇辺りから奈良時代の須恵器・土師器が採集され、小幡西新(小幡廃寺辺り)から小幡隅除地区付近にかけてのこれら遺物の存在は、古墳時代から引き続き矢田川右岸の小幡・大森・尾張旭(印場)一帯には集落が営まれていたと思われ、尾張旭西部から守山大森東部一帯に当地区の中心地があった事が伺える。

●春日井市西津公園の区画整理事業記念碑
※愛知県春日井市下条町1丁目
 春日井市は庄内川を挟み北に隣接した市で、守山区同様多くの古墳があり、
 条里制遺構も多く見られ、考古学研究の盛んな市です。

「その昔條里制の布かれた下条の美田良圃は春日井のまほろばであった。時代の変遷につれ今ここに区画整理し市街地としかつての字名西津を公園名となす 1978年5月」とある。
春日井市の条里制調査では、春日井市の西に位置する小牧市の北部を一条の起点とし南に20条、里は清須市の五条川付近から始まり春日井市に至るという。またJR中央線(西線)春日井駅前の「条里制遺構之標」には「この地点を通る東西の一線は近世の関田・上条両村の村界でかつ往古の条里制春日部郡第14・15条の境界線である」とあり、写真の西津公園の「区画整理事業碑」のあるこの付近は「春日井市立中部中学校々庭に南接する市道の南路肩あたり東西に延長した線が昔の上条・下条両村の村界であると共に第16・17条の界線であり、上条・下条とは柏井荘をこの線で二分した呼名であろう」という。


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