●昔話 志段味小僧(上志段味・久岑寺)

志段味小僧(その一)

二百年ほど昔のことです。志段味村の久岑寺に満瑞(まんずい)という小僧さんがいました。ちょうどそのころ、久岑寺の本堂の工事が始まっていました。大勢の人夫たちが土台石を運んだり材木を運んだりしていました。お寺の土台石ですから普通の家のとは比べものにならない程大きいのです。その中でも大黒柱の土台石は人夫が五人がかりでもびくとも動かない程の大きさです。人夫たちは困りはてていました。それを見た満瑞さんが側へ来て、「みなの衆、ちょっとどいてくだされ。わしが運んでみましょう。」といいました。
「満瑞さん、なにをいやーす。わしんたぁが五人掛りでもびくともせんのに、お前さん一人でどうなるものか。」
と、笑っていましたが、満瑞さんはにこにこ笑いながら、腕をまくり上げて石にとりついて「うーん」と力を入れました。と、石がぐらっと動くではありませんか。人夫たちは目を丸くしました。満瑞さんはもう一度足を踏ん張って力を入れなおして、石を持ち上げ、そのまま大黒柱を据える所まで運んでしまいました。人夫たちはポカーンと口をあけたままです。いつもニコニコしてやさしそうな満瑞さんのどこにあんな力があるのか不思議でたまりません。
「力持ちの満瑞さん」「大力の志段味小僧さん」と、満瑞さんの名はいっぺんに村中にひろがりました。おしょうさんは満瑞さんを側へ呼んで言いました。
「満瑞や、力を自慢してはならぬぞよ。その力を村の衆のために役立てるのが仏の道だということを忘れるでないぞ。」
満瑞さんはおしょうさんの教えを守って一心に仏の道を修行しました。
ある夏のことです。降り続く大雨で村を流れる川の堤防が二メートル程切れました。そこから泥水がどんどん田の中に流れこんで、このままでは植えたばかりの苗がみんな流れてしまいます。村の衆が大勢で水をくい止めようとしましたがなんともなりません。それを聞くと、満瑞さんはお寺の門の扉を一枚はずしてかついで行き、堤防の切れ口にあてて水の流れこむのを防ぎました。
「村の衆、わしがこうして抑えているから早く杭を打ちこんで土を入れなされ。」
満瑞さんのことばに、村人たちは杭を打ち込み、土のうを積み上げて、二時間程のうちに堤防の修理が終わりました。
「満瑞さんのおかげじゃ。おかげで村中の稲が助かった。ありがとう満瑞さん。」門の扉をかついで帰って行く満瑞さんの後姿に村人たちは手を合わせるのでした。
※『名古屋の伝説』名古屋市経済局観光貿易課編集より


志段味小僧(その二)
久岑寺というお寺があるわ。そこのお寺に昔、頑固な和尚がおって、ほんで、風呂を沸かしだところが「それあっついで埋めよ。熱すぎたで埋めよ。それぬるなったでくべよ(火を焚け)」てって。ほんで、よけ(たくさん)小僧がおったけど、小僧が困っちまった、あんまりわやくじゃ(無茶苦茶)で。ほんで、まあしとり強い(しっかり者の)小僧がおって、「こうせやおら(こうしてさっさと)、和尚の気に入るように、風呂沸かせてやらせ」てって言って、庄内川へ、その和尚入れたなりの桶(風呂桶)持ってって、庄内川で沸かせだ。
「それ、あっつい」たら庄内川から水くんで埋めた。ほいからまた、埋めすぎて「つべてェ(冷たい)」て言ったら、またそこで、たきもん(たきぎ)持って来てくべて(火を焚いて)、ほで(それで)和尚をそこで機嫌取ったちゅうことだ。
※『名古屋市守山区志段味地区民俗調査報告書』より。
※「志段味小僧・その二」は同調査により地元の古老から聞き取ったもの。

※吉根・志段味地区の人々にとって、庄内川(大川)は身近にあり、生活基盤を左右するものでもあり、怖れ・願望・親しみによりこの様なお話が創造されたと思われる。
※同地区には、古くより今に至る多くの地域行事・伝承があり、『守山区志段味地区民俗調査報告書(※1)』に記載されている。しかし時代と共にそれらの行事・伝承も徐々に忘れ去られようとしている。

※1:『名古屋市守山区志段味地区民俗調査報告書』志段味地区民俗調査会/編集
1985年(昭和60)発行。同書は名古屋市文化財調査報告として同地区を訪問し聞き取り調査をし編纂された吉根・志段味地区の総合的民俗調査書。
※2:「志段味小僧」のお話はこの他にも異なったバージョンがある。


長松山 久岑寺(きゅうしんじ) 
曹洞宗 本尊:聖観世音菩 名古屋市守山区大字上志段味字道
1600年(慶長5)頃、元々は瀬戸の雲興寺の隠居寺「神宮寺」として、東谷山の中腹、現在の愛知県立大学看護学部(東谷山字平子寺山)のある所に建てられた。
その後神宮寺は一時廃れて無住となったが、1600年(慶長5)頃、三代目海覚慈船(じせん)和尚の尽力により庄内川近く(細川原)に移転し再興されたが、1767年(明和4)の大雨では庄内川が氾濫し多くの物が流失、その後も度々水害にみまわれたため昭和の初め頃にここ(道光325)に移転された。

※この雲興寺の住職は十二世蓬山永宮禅師とされる。
※境内志段味稲荷神社はもと庚申堂でしたが、秋葉山など合祀して現在の稲荷神社となった。
※1792年(寛政4年)の村絵図に庄内川近く字細川原に「久岑寺」が描かれている。
※久岑寺の「岑(しん)」とは「山」の意。
※『守山市史』には大永元年(1521年)7月に焼亡。後に蓬山禅師が入山し正保のころ量山応禅師が住したとあり、「志段味小僧」について、海覚和尚(同寺中興の祖)の弟子として満瑞さんがいた可能性もあるが、実際には満瑞の存在は不明としていて、久岑寺にもその記録は無いと言う。
※現在の本堂は昭和初期に建てられ、鐘楼門は1989年(平成元)に建てられた。
※境内には志段味小僧の「石」の記念碑がある。
※志段味小僧のお話は江戸時代の地誌『尾張志』『尾張徇行記』など多くの本に記載されている。(「その二」のお話は地元のみに伝わっているもの。)