●守山区を巡る橋(渡し)
守山区は北・南・西を庄内川・矢田川・香流川に囲まれており「橋」を渡らねば区外に行くことが出来ない。また橋は交通のネックともなり渋滞の元ともなっており近世は各地で拡幅工事が行われ現在に至っている。(東は尾張旭市・瀬戸市と陸続きで大きな橋はない。)






矢田川上流部より

1.大森橋 【区内元郷-天子田】
写真右(北):大森中央公園
グランドの照明塔
(守山区元郷1)
下流約100m程にある
名古屋市水道局「大森水道橋」
さらに下流約450m程にある
名古屋第二環状自動車道
(名二環・国道302号)矢田川大橋
1952年(昭和27)豪雨により旧木橋流失、仮橋を架けるも翌年再度流失。翌1954年(昭和29)長さ126m、幅5mの橋が架橋され、現在の橋は新たに1986年(昭和61)3月に架け替えられた。

2.小原橋 【名古屋市千種区東千種台・名東区天神下-区内苗代・菱池町】

1952年(昭和27)豪雨により旧橋が流失、その後改築されるも1957年(昭和32)の豪雨で再度流失。翌年仮橋が架けられ、1961年(昭和36)修復され完成。現在の橋は1979年(昭和54)1月に完成した。

3.千代田橋/渡し 【名古屋市千種区千代田橋-区内小六町・小幡千代田】

左が矢田川
右手(南東)より香流川(名古屋市千種区)が合流する
現在の橋は1976年(昭和51)1月に架橋された。
また千代田橋下流には、尾張四観音の笠寺観音(天林山笠覆寺)と龍泉寺(松洞山龍泉寺)を結ぶ笠寺道(塩付街道→竜泉寺街道)の矢田川の渡しがあった。
渡しは民営で近在の農民が仮橋をかけ渡し賃を取ったが、浅瀬を徒歩にて渡る人が多くいため、周辺を掘り下げ徒歩で渡ることを妨げていたという。

4.宮前橋 【名古屋市東区砂田橋・大幸-区内町南・更屋敷 愛知県道30号関田名古屋線】
手前が宮前橋、上方奥が「ゆとりーとライン」矢田川橋梁
「ゆとりーとライン」
「ゆとりーとライン」は鉄道とバスを組み合わせた新交通システム。
日本初そして唯一、海外ではドイツ、オーストラリア、近年ではイギリスで実用化されているが、専用高架道路による長距離システムとしては世界でも類を見ない。
江戸時代には一本橋が架けられ渇水期には徒歩にて渡っていた。1937年(昭和12)大幸一帯(名古屋市東区)の三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場(戦時中ゼロ戦のエンジンを作っていた)と守山の従業員宿舎を結ぶため松河橋の余材をもって本流部分に木橋が架けられた。1947年(昭和22)本格的木橋が架けられたが1957年(昭和32)豪雨により流失。翌1958年(昭和33)長さ188m、幅9.5mの橋が架けられ翌年開通式が行われた。現橋は1972年(昭和47)10月に竣工した。
◇橋の名の由来
:橋の北東(守山区)に廿軒家神明社があることによる。
※この橋は守山自衛隊駐屯地に通じるため防衛道路の一環として一部防衛庁予算で架橋された。
写真は木橋を行軍する旧陸軍(時代不明)


5.矢田川橋/渡し
【名古屋市東区大幸・矢田-区内市場・町南 愛知県道61号名古屋瀬戸線】


上流部約50m程に沿うようにある名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線矢田川橋梁
写真は2008年(平成20)より瀬戸線用に新造・投入された4000系車両
古く「渡し」の時代には今の矢田川橋と長母寺の中間あたりを徒歩(かち)渡りをしていた。渇水期の冬~春には本流部に仮橋をかけ渡し賃を取っていた。また藩主の通行時には御船方役人により船が用意された。
1872年(明治5)に木製の橋が架けられ人は三厘、馬一匹五厘、車一銭の通行料を徴集し年間70~80円が守山村の収入となっていた。しかし多くの人々は水量も少なく徒歩にて渡っていた。
1884年(明治17)、水谷忠厚の尽力により無料の木橋が架けられ、1914年(大正3)鉄骨橋に架け替えられた。その後老朽化が進み1953年(昭和28)と1958年(昭和33)12月と東西を二期に分け架橋工事がされ、長さ120m、幅15mの現橋が竣工した。
写真は1884年(明治17)に架橋された矢田橋の親柱(名古屋市東区)
矢田の渡し

:『内津道中記』より
矢田河原吹降
雨風やほめる言葉と思いけんえらいえらいといへばなをふく


『内津道中記』:1840年(天保11)3月、成瀬隼人正の同心伊賀十兵衛の子、鬼熊(十吉)とその親戚の蝶女、妹梅香(こよ)など総勢6名が名古屋城下南寺町の自宅を出立し内津妙見を経て龍泉寺へ参詣。小倉百人一首の替え歌と16枚の挿絵で綴られた一泊二日の旅日記。
岡田弘氏の寄贈により内津神社におさめられている。

6.天神橋/山田の渡し
【名古屋市北区山田北町-区内瀬古東・新守山 国道19号:愛知県名古屋市から長野県長野市】


上流約470~80m程にあるJR中央線(西線)矢田川橋梁
古くは現橋より30mばかり下流にあり、コンクリート橋が計画され橋脚まで建設されたが、戦時下の物資不足により上部は木橋にて架橋された。戦後になり1956年(昭和31)木橋部分が取り払われ、長さ142m、幅9mのコンクリート橋に改めて架橋された。現橋は増大する国道19号線の車両に対応するため1993年(平成5)3月、上下三車線の近代的に橋となった。
◇橋の名の由来
江戸時代天保(1830~43年)のころ高牟神社の禰宜が山田次郎重忠奉納といわれる菅原道真公(天神様)の画像を、山田村(現名古屋市北区)の質屋「大坂屋」に入質、時代が下り瀬古村が当村の宝であるからと返却を求めたがまとまらず、1875年(明治8)ころより前半年を大坂屋、後半年を神社にてお祀りする事になり、半年毎に天神様の絵が矢田川を渡るので、この橋を「天神橋」と呼ぶようになったという。
伊能忠敬測量隊も通った
伊能忠敬が守山を測ったのは第7次測量、文化8(1811)年3月22日。
忠敬が残した測量日記、尾三測量日記(測量日記四)には「(前略)春日井郡大曽根村地内大印より初逆測  山田村(山田川土橋二十四間)瀬古村(勝川川幅三十間四尺五寸)勝川(村駅)迄測(後略)」と記され、当日の測量は瀬古村下街道(善光寺街道)を山田村(名古屋市北区)から勝川村(愛知県春日井市)へ、南から北に忠敬隊の副隊長、坂部貞兵衛の別隊によって測られた。
山田の渡し

絵:『内津道中記』より
山田河原
ふらふらとやきめしさげて旅の空こまりておいたり竹のやうらん 勇子
ふハふハとなの葉ニとまれ里の蝶 勇子
山田川おさな子行水の浅瀬をきくが渡りける哉 梅香

7.三階橋 【名古屋市北区辻町-区内川西・瀬古 愛知県道102号名古屋犬山線】
上流100m程にあった名古屋鉄道(名鉄)小牧線矢田川橋梁
2003年(平成15年)3月27日、上飯田-味鋺間が地下化され
鉄橋は撤去された
車両は名鉄カラー「名鉄スカーレット」の3300系車両
1876年(明治9)前後、木曽街道及び黒川の整備がされた頃、何らかの橋が架けられていたと思われるがそれ以前のことはよくわかっておらず1925年(大正14)には木橋が架けられていた。
この木橋は洪水で同年に流失。1927年(昭和2)長さ128m、幅10mのコンクリート橋が架橋された。
現橋は2017年(平成29)3月完成。県道102号名古屋犬山線(通称名犬街道)の交通量増大・渋滞解消のため、長さ130m・最大幅44mの上り下り分離橋となり、また北区辻町から流入する、第一庄内用水橋が高架でつながると言う三橋式の長大なものとなっている。
◇橋の名の由来
同地の矢田川は伏越(地下暗渠)で庄内用水(黒川)が潜り、地上に矢田川が流れそしてその上を橋が架かるといった三重構造のためこの様に呼ばれるようになった。
写真左:旧三階橋 
写真右:庄内用水 矢田川伏越樋 明治44年5月改築 記念碑(名古屋市北区)



香流川上流部より

1.下川原橋 【名古屋市名東区下川原-区内森孝東】


1969年(昭和44)10月架橋。上下一車線、歩道なし。
一帯の香流川は川幅50mに満たない都市中小河川として流れ、名古屋市名東区・千種区と守山区の境をなし約5km程西流しやがて矢田川に合流する。矢田川もまた名古屋市千種区・東区・北区・守山区との境をなし約9km程西へ流れ名古屋市西区で庄内川と合流、庄内川は名古屋市の外周を流れやがて伊勢湾(名古屋港)に注ぐ。
写真右:「香流川緑陰歩道」香流川の河川敷・堤防は市民の憩いの場としてよく整備されていて、堤防(守山区側)は散歩道として整備されている。

2.振興橋 【名古屋市名東区藤里町・藤香町-区内四軒家・森孝東】
写真のバスは
「名古屋市営バス」

下川原橋より下流約450m程、現橋は1993年(平成5)3月に改築された。
名の由来:

1929年(昭和4)10月、ニューヨークウォール街株価暴落に始まった世界不況は日本にも波及し昭和恐慌が始まった。
1932年(昭和7)頃より日本では不況対策として各種農村振興策が施行され、森孝地区では当時の金額で総工費4,800円にて道路や橋等の振興事業が行われ、同橋もその事業の一環として架橋された。
この様な振興策は同区瀬古地区でも行われ、また隣の北区では矢田川の流路を北へ移し輪中地帯を解消するなど大工事が行われた。

写真:森孝八劔神社境内にある「農村振興事業」碑

3.新藤森橋 【名古屋市名東区藤里町-区内四軒家】
写真奥(下流)に見えるのが
東名高速道路香流川橋梁

東名高速道路香流川橋梁
振興橋より下流約560~70m程、1971年(昭和46)3月架橋。
すぐ上流部(南東)より藤ノ木川(名古屋市名東区)が合流する。

4.藤森橋 【名古屋市名東区藤森西町-区内森孝線】

新藤森橋より下流約210~20m程、1975年(昭和50)5月、改築。
写真:藤森橋より下流180~90m程、堤防道路より降りるこの小さな階段、そして北へ続く路地が守山区と名東区の区界となっている。

参考資料:
『守山市史』守山市 1963年(昭和38)
『春日井の散歩道 歴史をしのびロマンに出会う』 春日井郷土史研究会 2003(平成15)
『内津道中記』1840年(天保11) 内津神社 蔵
『郷土誌かすがい20号 ホームページ版』春日井市役所
 その他



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