●月谷初子と後藤白童

◆月谷初子(本名:乾はつ)
御器所村「忍焼」にて
おそらく彼女が日本で最初の女流陶彫家(陶土に彫刻をした焼き物)であったと言われる。
1869年(明治2)、東京麻布内藤家屋敷で乾与兵衛の長女として生まれたと言われている。
作家桑原恭子氏は内藤家に仕えていた月谷(某)女が当主との間に庶子として生み、乾与兵衛の養女として届け出その後月谷姓を名乗ったのではないかと言っている。

1881年(明治14)、12歳の時イタリア人の彫刻家ラグーザに師事した彫刻家小倉惣次郎に彫塑を学ぶ。1896年(明治29)彫工会展にて早くも入選を果たした。
時は鹿鳴館時代、彼女は何の不自由なく育てられ家事等一切行うことなくお嬢様と育てられ、また当時では珍しかった洋装を纏い、メリケン娘と呼ばれモデルを頼まれるなど評判美人であり、利発・才長けており彫刻家として将来を嘱望されていた。しかし彼女は1899年(明治32)、彫工会展に出品後中央美術界から突如姿を消す。

仕事上で知り合った10歳年下、21歳の北川(後作陶をする)と彼女は恋に落ち31歳の彼女は東京を出奔した。この時代彼女同様柳原白蓮など古い因習から解き放され自由に目覚めた女性たちが世間を騒がしていた時代でもあった。

しかしこの事は有力者の庇護の元に創作活動をしていた彼女は、同時に経済的援助を失う事となり、屋台を引くなど逃避行の生活が始まった。
彫刻家の彼女はやがて横浜で陶芸作家真葛(宮川)香山と出会い弟子となる。香山より陶彫の技を身につけた彼女はその後各地の窯場を巡る「窯ぐれ」として放浪生活を15〜6年ほど続けた。しかしそれは病弱の北川を伴うもので生活は苦しいものであったと言う。
※窯ぐれ:陶芸を生業として各地の窯場を渡り歩く職人。

1915年(大正4)、46歳の時、愛知県愛知郡御器所村(名古屋市昭和区山脇・北山・鶴舞一帯)に熊沢一衛氏(当時三重県在住)の厚意により作業場を得る。また同村荒畑に内田研工所の工業用電気炉を借り窯場とし緑陶房を開き、地元の染物業小幡正次氏など多くの支援者を得て「忍焼」を窯印として窯主となり職人を雇い一時は大いに賑わった。
しかし1930年(昭和5)頃よりの昭和不況、また収入があれば人力車を雇い料亭遊びを繰り返すなど「ご奇人」と陰で言われるほどの奔放ぶりを発揮、放漫経営により行き詰まりやがて廃業、同所での十数年の窯主生活は終わった。
※御器所村(ごきそむら):その名は古く熱田神宮の祭器を焼いた所と一説には言われている。

御器所村の窯を閉じた彼女は、かつての弟子加藤勇の口利きで同年61歳の時、夫北川や弟子後藤白童を伴い東春日井郡守山町(名古屋市守山区)へ転居、瀬栄陶器支配人斉藤徳次郎の元でノベルティの原型師の職を得る。
※原型師:陶磁器の形象人形など塑像の原型を造る職人。
当時の瀬栄陶器の社主水野保一は立志伝中の人で、彼女の才能を大いに買い一戸建て社宅(守山区北山)を貸与し厚遇にて迎えた。しかし彼女はそれに飽きたらずやがて瀬栄陶器を離れ援助者を得て第二次「忍焼」を守山に開く。
このころ彼女の才を惜しみ美術界への復帰を諭す人がいたが、彼女は在野の陶芸作家の道を選ぶ。
※瀬栄陶器:1896年(明治29)設立、1929年(昭和4)守山工場設立、2014年(平成26)会社整理となる。第二次世界大戦中は陶製手榴弾を国内で最初に生産した。

守山時代の彼女は相変わらず気位高く奔放・潔癖性で陶芸一筋の生活を続けるが、この頃からリュウマチにより体力が衰え、乳癌を発病するなど制作もままならぬ事となり、病弱の夫北川を1937年(昭和12)頃に亡くし、守山の「忍窯」は1939年(昭和14)頃に閉じられ、9年間ほどの守山での制作が終わった。
彼女の創作意欲はしかし生涯衰えることなく、守山を離れ各地の弟子の元を訪れ制作に没頭するが我儘な振る舞いは改まることなく、どこも長く落ち着く事ができず、1942年(昭和17)、73歳の彼女は零落した姿で再び守山を訪れ、かつての弟子後藤白童の元に寄寓し制作を続けるがここにも安住は出来ず、林某女に引き取られやがて1944年(昭和19)病により、八事(名古屋市昭和区)の名古屋医療養老院に入院、1945年(昭和20)2月19日、76歳にてその波乱の生涯を閉じた。



月谷を支援した染物業小幡正次氏宅(左の木造家屋・現名古屋市昭和区北山本町)。
当時の月谷の窯場はこの裏手数分の所(現名古屋市昭和区山脇町)にあった。
いずれも旧御器所村(旧愛知県愛知郡)。
参考文献
名古屋の女流陶彫作家、忍焼 月谷初子 大野哲夫著 もりやま6号
月の炎 女流陶芸の先駆・月谷初子 桑原恭子著 風媒社
名古屋のやきもの−荒木定子コレクション− 荒木集成館
昭和区の歴史 愛知県郷土資料刊行会





◆後藤白童(本名:後藤忠助) 
ある彫刻家の記録より
1908年(明治41)年12月28日、後藤定吉の三男として静岡県賀茂郡下河津村沢田に生まれる。
旧制高等小学校卒業後、1923年(大正12)春、16歳の時長兄虎吉が開く食パン店を手伝うため東京深川に転居するが、同年9月1日昼に発生した関東大震災に遭遇する。
長兄虎吉の商売はこの震災により全てを失い、その後帰郷するが過労が重なり亡くなる。
白童も震災の翌年1924年(大正13)帰郷。東京へ行く以前より白童は聴力に異常をきたしており震災後の心労・過労などありますます進行する。その後東京にて治療を受けるが聴力は回復することなく完全に聴力を失う。
白童は一時鍼灸師を目指すが耳の障害のため断念、孤独と不安を癒すため地元虎杖山林際寺へ日参する。そしてそこに祀られていた観音像を見て感ずるものがあり仏像制作を始める。もちろん経験があるわけではない、見よう見まねで粘土を練る、やがて一尺ほどの観音像が完成、白童の遠縁にあたる後藤九兵衛宅庭先にこの塑像は置かれた。やがてここを訪れた仏教彫刻に知識のある獣医師加藤泰一がこれを見てその才を見抜き彫塑家になることを勧め、当時女流彫刻家としてもてはやされていた月谷初子への弟子入りを父定吉に進言する。

20歳の白童は当時愛知郡御器所村に「忍窯」を開いていた月谷の元を訪れ入門を乞う、やがてその熱心さにほだされ内弟子として入門を許されることとなる。
この当時40歳半ばを過ぎていた月谷は、一時もてはやされた「男装の麗人」とはほど遠く既に生活が荒れ過日の姿を見ることは出来なかったという。この内弟子時代、白童は手ほどきを受けることなく、障がい者として下僕のごとく無給で使われていたと述懐している。

やがて三年半が過ぎ24歳になった白童は東京に出て再起をはかるため当時「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家である朝倉文男に師事し数ヶ月を朝倉塾で見習いをするが、その後内藤伸(後日本芸術院会員となる)の元を訪れ、ここで後多摩美大教授となる佐々木大樹氏を紹介され内弟子となる。内弟子として雑用をこなしながら、ひとり郷土の英雄「河津三郎と力石」を彫り上げる。やがてこの作品は「畳石」と改題され、1936年(昭和11)文展(後の日展)に出品され初入選を果たす。白童はこの時29歳、「白髪書童」白髪になるまで書物に親しむ、から二文字を採り本名忠助から師により「白童」と命名され独立をはかり木彫家となる。

白童はその後1937年(昭和12)4月末、月谷の元で弟子をしていた頃の兄弟子加藤勇の元を訪れ、瀬栄陶器に原型師主任として勤めていた彼の紹介で同社支配人斉藤徳次郎に認められ原型師として守山(守山区)に職を得る。
また加藤と斉藤は彼の原型師としての能力以外、本来の木彫に専念させるため便宜を図り原型師としては非常勤扱い、月給40円という破格の待遇を与えた。そして地元に係累のない白童は斉藤の口利きで瀬戸電守山口駅(現守山区)近くに小さいながら一軒家を借り、その後師である佐々木大樹の元を去る時「彫刻家として一本立ちする前に生活の基礎を確立しなさい、そして彫刻に専念しなさい」との言葉を守り、生活を切りつめ守山大門(現守山区鳥羽見地区)に家を借り、さらにその後土地を購入、自宅を新築しアパートなど建て生活の基盤を得る。
※瀬戸電守山口駅は1969年(昭和44)4月に廃止。

1941年(昭和16)10月23日、白童は地元に近い静岡県賀茂郡下田町白浜の元庄屋の娘佐々木義雄の長女きさ子と結婚する。きさ子はやや足が不自由であったが聡明な女性で耳の不自由な白童の耳となることを決意し、夫婦で守山大門の新居に移る。
新居に落ち着いた次の年1942年(昭和17)秋、うらぶれた姿の月谷が白童家を訪れ同居をする。弟子時代余りいい思い出のない白童だが同居をする。しかし月谷のわがまま・奇人ぶりは相変わらずで、一年ほど同居の後、病も重なり月谷は白童・きさ子の元をさり1945年(昭和20)2月19日、名古屋医療養老院にて76歳の生涯を閉じた。

瀬栄陶器では妻きさ子も事務員として共働きをしていたが1945年(昭和20)3月、名古屋一帯は米軍による大空襲に見舞われ、妊娠七ヶ月のきさ子は同月静岡県下田町白浜の実家へ疎開し、長女好子を出産、終戦の年の11月、きさ子は守山の家へ長女を連れ帰る。この頃のきさ子は白童の耳となり美術講演会を白童と共に回り多くのことをメモし白童に伝えた、白童はこれを大いに参考とし制作に励んだと言い、白童は自分の作品は妻との合作だと公言して止まなかった。その後1952年(昭和27)瀬栄陶器を円満退社する。
その後次女貞子、長男忠が生まれ生活のめどが立った白童は40歳半ば、更なる修業のため高藤鎮夫(日展会員彫刻家)の彫塑研究所に通い、47歳で日展入選を果たす。入選はその後も10数回続き、ヘレンケラー来日の折りには木彫を贈呈する。
1955年(昭和30)喜多山(守山区)にアトリエを構え、1998年(平成10)2月24日、守山区北山35の自宅兼アトリエで89歳で生涯を閉じた。


写真上左 安休山利海寺「布袋像(木彫)」(西城一)
写真上中
名古屋市立守山小学校「希望」(西島町)
写真上中 守山消防署「消防像」1972年(昭和47/西新)
写真上右 故郷河津八幡神社にセメント像として1962年(昭和37)10月に寄贈された、文選初入選の「畳石(河津三郎と力石)」


写真下 後藤白童、かつては月谷初子が原型師として働いた瀬栄陶器(守山区町北・1954年/昭和29当時)

他、愛知玉葉会第二尾張荘(川東山)には観音像三体(一体は金銅仏)、創設者石黒幸市初代理事長の像、笛を吹く裸婦の大作があり、また名古屋及びその近隣の公共建物には記念モミュメントとして後藤白童の作品が多く設置されている。

参考文献
ある彫刻家の記録 天城峠に不死鳥羽搏く 吉田豊作・中紙要/共著 週刊名古屋社