旧郷社 高牟神社



由緒 式内社 高牟神社
 養老元年御鎮座(千三百年前)
一、高見天神の称号を賜う  尾張本国帳に記述有り
一、江戸時代には尾張天満宮二十五ヶ所巡拝の十一番札所として大勢の参拝あり
一、天神橋の名の由来  当社の天神様が年に二度渡られたため
一、元当社神宝の兵庫鎖太刀は  現在国宝として東京博物館に収蔵
一、御祭神 高皇産霊命 素盞鳴尊 天照大神 菅原道真 他
一、末 社 金比羅社 熱田社 靖国社
一、祭 礼 例大祭 十月 日
元旦祭 一月元旦
厄除祭 一月 日
夏祭り 七月
一、御造営復興 昭和三十六年十月成る

祭神は高皇産霊命(タカミムスビノミコト)・素戔男尊(スサノオノミコト)・伊弉諾神(イザナギノミコト)・大山祇命(オオヤマツミノミコト)・天照大神(アマテラスオオミカミ)・菊理姫命(ククリヒメノミコト)が祀られている。境内末社として本殿東に熱田社・金比羅社が祀られ、本殿西には靖国社が祀られている。また近年下街道(善光寺街道)南入口にあった天王社が更にその西に祀られている。
社伝では717年(養老元)御鎮座。本殿は909年(昌泰3)9月再建、さらに1825年(文政8)8月に修復され、古くは従三位高見天神とよばれた。
瀬古高牟神社は山下八ヶ村(瀬古・幸心・川・牛牧・守山・大森垣外・大永寺・金屋坊)の総鎮守として信仰を集め、1881年(明治14)10月27日には守山、金屋坊、大永寺、大森垣外、川村、牛牧、幸心、瀬古(以上守山区)、中切、福徳、成願寺(以上北区)、松河戸、勝川、妙慶寺(以上春日井市)の信者の浄財により本殿落成再建された。
しかし1945年(昭和20)5月14日の空襲で焼失。この時隣の石山寺も客殿・庫裏などが焼失した。現在の建物は1961年(昭和36)に再建された。
現在境内は南向きに広がるが、1767年(明和4)の矢田川の大洪水以前は矢田川は現在より南を流れており境内は現在よりかなり南に広い神域を構えていたと思われる。

この「
兵庫鎖太刀」は現在東京国立博物館に重要文化財として寄託されている熱田神宮所蔵の鎌倉時代作「金銅鶴丸文散兵庫鎖太刀」と思われ、鞘銘に「尾州春日井郡安食上庄鎮守ハ劔大明神、清瀧権現、長尾天神 社奉 施御劔、永仁第七暦己亥三月二十六日、勧進唯心房圓定」とある。
名古屋市史(大正5年4月)刊には「尾張年中行事繪抄に曰 此兵庫鎖の太刀と云へるは、むかし大内裏のありし頃、兵庫寮にて製せしもの也、此太刀元は瀬古村天神の神寶なりし由なり」とあり、この「瀬古村天神」は瀬古高牟神社をさす。
※総長95.3p 柄長20.7p 鞘長74.6p 刀身 無銘 長さ64.1p 反り2.3p。1904年(明治37)8月29日に重要文化財指定。


高見天神の由来
同社は古くは「高見天神」と呼ばれた。天神社の由来は当地の当地の武将山田次郎重忠(平安時代末期〜鎌倉時代初期の武将/承久の乱に源氏方と戦い自刃して果てた)奉納といわれる菅原道真公(天神様)の絵が有った事によるが戦災により焼失、現在見ることはできない。

写真下右
 高牟神社標石「郷社 式内 高牟神社」 裏面「明治四十四年五月建之」
写真下左 矢田川堤防下に座するため堤防道路を下る坂が参道になり神社に入る。

律令時代の春部郡(かすかべ)
律令時代、当初尾張は八郡「中島・海部・葉栗・丹羽・春部(かすかべ)・山田・愛智・智多」であったが後海東郡(一部海西郡も見られる)が追加され尾張は九郡の時代が続いた。現名古屋市の多くは愛智郡に含まれていて、名古屋市北区と西区の北部が春部郡(春日井)に近接し、市北東部の守山区全域は山田郡に含まれていた。
しかし室町時代1548〜1570年(天文17〜元亀元年)のいずれかの時期に山田郡は南を愛智郡、北を春部郡に分割され消滅した。尾張は八郡に戻り山田郡の存続期間はそれ程長いものではなかったのであろう。
山田郡は分割消失したが、荘園として山田荘は鎌倉時代においても尾張源氏の山田氏が新地頭として鎌倉幕府から派遣され存続した。しかしその範囲は寄進系荘園が多かったため時代により変化し、また矢田川・庄内川の河道の変化もあり山田荘は散在型荘園だっと思われ範囲を確定するのは難しい。

瀬古高牟神社は式内社であったか?

『延喜式神名帳』に記載されている尾張国式内社は121座。春(日)部郡には12座の式内社があるが、その場所に疑問的な所も少なくなく論社(延喜式に記載された神社で証拠などなく不確かな神社。比定地・伝承社と同様)とされる神社も多くある。そして瀬古高見に座する「高牟神社」もその論社の一座とされている


尾張國愛智郡の「高牟神社」(名古屋市千種区今池)に掲げられている、名古屋市教育委員会の標札には「当社は尾張物部氏の武器、農機具を納めた倉が神社になった」とある。
社名の「高牟」の「牟」は「鉾」と同意にて、この尾張物部氏の一派はさらに北へ勢力を伸ばし、名古屋北西部、春日井西部へ拠点を伸ばしていったと思われ、瀬古高牟神社も物部氏との関連ある神社かと思われ、由緒にある「兵庫鎖太刀」も物部氏の「武器庫」と何らかの関連があったのではないかと考えられる。

研究者によればその論社として
愛知県春日井市勝川町(旧勝川村)・・・・・・・・・・・・・天神社
愛知県春日井市玉野町宮之越(旧玉野村)・・・・・・・・・・五社神社
愛知県西春日井郡豊山町豊場木戸(旧豊場村)・・・・・・・・八所神社
愛知県北名古屋市高田寺 (旧高田寺村)・・・・・・・・・・・白山神社
愛知県春日井市東山町 (旧下原村)・・・・・・・・・・・・・松原神社
愛知県名古屋市守山区瀬古東(旧瀬古村高見)・・・・・・・・高牟神社

が挙げられている。

勝川村天神社は、府誌(尾州府誌)勝川天神の条に「旧所在地名高山後移今地…高牟一書(後略)」と有るのみで、地元郷土資料誌『勝川天神社』においても否定している。
また旧
玉野村五社神社も同様根拠は甚だ乏しい。
豊場村八所神社においては『尾張名所図会』に「常安寺・物部神社」図中右下に物部神社として描かれており、むしろ物部神社の論社として考えられる。
同様、春日井市二子町、 味美白山神社古墳(六世紀初頭、墳長約86メートルの前方後円墳)上にある
味美白山神社には隣の味美二子山古墳(六世紀初頭・全長96メートルの前方後円墳・国史跡)上に祀られていた物部神社が現在祀られており物部神社の論社の一つに数えられる。
このようにこの春(日)井郡の一部は古代尾張物部氏との関わりの深い地と思われる。
旧高田寺村白山神社、720年(養老4)開基、国重要文化財など多くの寺宝を持つ高田(こうでん)寺裏に位置し『尾張徇行記』には「白山社界内…府志曰、高牟天神在高田寺村、今称白山、伝曰、延喜神名式高牟天神、本国帳春日部郡従三位高牟神社是也」とあり、神職町田家に伝わる高田寺村『六郷神社由緒之記』にも同様の記述が有る。しかし明治時代初頭、神祇役所に届けられた『特選神名牒(とくせんしんみょうちょう)』では「(前略)高田寺村白山社を高牟神社とするは拠もなく高牟と高田とまごうべき地名にも非れば取りがたし」とこれを否定している。
また北1km程にある651年(白雉2)創建の式内社牟都志(むつし)神社があり、祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)、古くはここが白山社を名乗っており、旧高田寺村白山社を高牟神社とするには無理がある。


『特選神名牒』では旧勝川村天神社、旧豊場村八所神社、旧瀬古村現高牟神社、旧下原村松原神社においても「何れも証なしと云り」否定している。

松原神社(愛知県春日井市東山町)
祭神は、高皇産霊命(タカミムスビノミコト)・雅牟須比命(ミヤズヒメノミコト)・大宮比売命(オオミヤヒメノミコト)・稲倉魂命(ウガノミタマノミコト)・埴山比売命(ハニヤマヒメノミコト)・猿田彦命(サルタヒコノミコト)
松原神社のある下原地区(旧下原村)は下原古窯群があり春日井市内味美古墳群などの埴輪の供給地として古くから人々の営みが有り、江戸時代には農村歌舞伎の行われた大型の松原座が境内にあり、近年まで一帯では亜炭が採炭され大いに賑わっていた。
江戸時代、山城の国より稲荷神社のご分身をいただき、稲荷神社また高牟神社と名乗り旧来の名が失われたが、1871年(明治4)犬山県より松原神社との認定をうけた。
地元の言い伝えでは「昔下原のお宮様は高牟神社と言っていたそうだが、瀬古村に御神体を盗まれたので名を変えた」とある。
社宝として高さ76.5cmの高牟神社と記された揮ごう額、また高牟神社と記された棟札などを所蔵する。しかしこの揮ごう額については、材は古いが文字は古体に非ずと研究者は言う。

瀬古 高牟神社(名古屋市守山区瀬古東)
一方旧瀬古村、現高牟神社は古くは高見天神と言い、神紋は「梅鉢紋」である。
瀬古地区もまた古くより賑わいを見た土地で、瀬古の地名の初見は1143年(康治2)、平安時代山城の国、醍醐寺領安食(あじき)庄(現在の愛知県春日井市勝川一帯)「水別里」西方「迫田(せこた)里」とあり、春部郡の醍醐寺領に含まれる。
所蔵の古棟札「奉修復高牟願主玄江書之 永正四年丁卯…」とあり、同様「奉再々建高牟神社…養老元年丁巳…」などと高牟神社をあらわす古書もあるが、書式から近年に書かれた物と研究者言う。


上記これら論社にほぼ共通していることは「高見・高田・高山」など高牟と字面・音が似ている事にその根拠を求めていて確たる証拠がある訳ではなく、同神社について『張州府志』は、延喜式の春日郡高牟神社を高田寺村白山にあてているが『尾張志』はそれを否定している。
一方『本国神名帳集説』では瀬古高牟神社(高見天神)が春日郡高牟神社であるといい『尾張名所図会』も同神社という。しかし『尾張志』は「されど正しき伝えあるにあらず、社の様の古めかしきと地名の似たるにすがっている」のみと否定している。
※『尾張志』の編纂に携わった小出聚斎は尾張国神社資料にて「瀬古村高牟神社は、兵庫(太刀)のありし所ならむ」とし同神社の古さを「兵庫鎖太刀」に求め当社が式内社の可能性を示している。


この様に春(日)部郡の「高牟神社」は資料的に不明な点が多くあり、今に知られていない「高牟神社」が他に存在、また既に廃絶している可能性も大いにある。
現在論社として
春日井松原神社・守山瀬古高牟神社が語られるが、研究者によりその意見は決定を見ない。


松原神社由緒
 当社は元明天皇の御世の和銅四年(711)の創建と伝えている 社地のあたりは古来地名を高牟(たかむ)と呼び 社名も古くは高牟神社と号し 延喜式第九(神名式)所載の春日部郡高牟神社に比定される
 中世に稲荷信仰が普及して合祀されるにいたったため 江戸時代の棟札には高牟稲荷大明神と記されたものが少なくないし 京都の神祇官の神道裁許状にもそう記されている(中略)
 時移り明治四年十月 犬山県は当社を尾張国神名帳所載の松原神社と認定し 翌五年五月愛知県は近傍十八カ村の郷社に確定したので 松原神社と名を改めて現在にいたっている

●松原神社

写真下右 松原神社標石「郷社 国帳 松原神社」 裏面「明治四十年五月建之」
写真下左 正一位稲荷大明神安鎮之事の証

※延喜式神名帳
平安時代中頃・醍醐天皇の頃、905年(延喜5)藤原時平らにより着手され、22年後の927年(延長5)藤原忠平らにより完成した法令の施行細則(式目)。このうち巻9・10の神祇官関係を著した部分に当時官社に指定された全国神社総覧があり、それらを現在『延喜式神名帳』という。
その神名帳に記載された神社を式内社または式社と言い、記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)と言う。
これら社格は1871年(明治4)太政官布告により廃され、1946年(昭和21)2月2日、連合軍総司令部(GHQ)により官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社などの社格も廃された。
※『特選神名牒』は『延喜式神名帳』の注釈書で、教部省(宗教により国民を教化する為設置された官庁) により編纂された全32冊。各県内式内社を再調査し報告を義務づけ、それらを記した書。1876年(明治9)一応の完成を見る。



参考文献 郷土研究 尾張国式内社の鎮座地の問題」木立英世
     郷土研究 延喜式所載の春部郡高牟神社」梶田元司・久永春男
     『愛知の式内社とその周辺』 小林春夫 著
     『愛知のやしろ』愛知の神社をたずね会 著
     『春日井の神社』春日井市教育委員会