●地租改正反対運動

明治14(1871)年
明治16(1873)年
明治18(1875)年
明治19(1876)年


明治10(1877)年


明治14(1881)年
明治17(1884)年
昭和〜
廃藩置県
太政官布告第272号地租改正法公布(上論・太政官布告・地租改正条例・地租改正施行規則・地方官心得)
地租改正事務局設置
農民の大規模な抵抗運動始まる
 真壁騒動…茨城県(真壁・那珂郡)
 伊勢暴動…三重県・愛知県・岐阜県・堺県(現大阪府南部と奈良県の一部)
地租軽減・歳出節減の詔(地租税率3%より2.5%に引き下げられる)
●減祖令以降も各地で続いた反対運動
 愛知県春日井郡・長野県伊那郡・福井県越前七郡・新潟県蒲原郡
地租改正事務局閉鎖、大蔵省租税局に引き継がれ地租改正事業完了
地租改正条例廃止、地租条例制定
昭和6(1931)年地租条例廃止・地租法制定。昭和22(1947)年府県民税に移管
昭和25(1950)年固定資産税に変更

新政府は幕藩時代バラバラであった貢租基準を改め中央集権国家を築く為まず統一された税制を確立し税収の安定を図らなければならなかった。その為には従来農民からの年貢に依存する方法では米の保管・輸送・換金そして気象など外的要因による米価の変動、歳入の不安定と言うこの状態を早急に解決しなければならず、明治6(1873)年7月28日、新しい地租改正条例を布告した。
これは従来の貢租(こうそ・年貢)が収穫高を基準とした現物年貢納であったに対し新地祖は土地の価格(地価)を課税基準とし地券を発行、豊凶に関わらず一定とし、土地所有者(地主・自作農)が金納とした(5年間の暫定値とし地価の3%、さらに地方税に相当する郡村入費を1%、5年後に見直す)。しかしこれは農民にとって従来の年貢制に比べ大幅増となり、新政府による新しい世を期待した農民には期待を裏切るものとなり真壁騒動、伊勢暴動ら各地で一揆が引き起こされた。(真壁騒動、伊勢暴動など死者を伴う一揆が各地で起こり政府は暫定地価3%を2.5%に減額、これを「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と揶揄された)。


●旧春日井郡地租改正反対運動
明治8(1875)年3月、大隈重信を御用掛、松方正義、前島密らを職員に配し総裁大久保利通を以て地租改正事務局が開設された。愛知県に於いては明治7(1874)年11月「地租改正に付心得書」が出され、明治8年より地押丈量(じおしじょうろう・田畑一筆毎の測量)が始まるもその進捗状況は思うようにならず国は人事に介入し県令鷲尾隆聚(たかあつ)、参事生田純貞を罷免、明治8(1875)年、後任の県令として安場保和、同参事に国貞廉平を任命しそれを強引に推し進めようとした。
春日井郡一帯の測量は地租改正局長荒木利定により徹夜で松明を焚きながら測量を強行、明治9年9月に完了、加増を当初から目論んだ測量により春日井郡の田畑は旧より4割も増加となた。

同10月18日荒木利定は地位等級の銓評(査定)を命じ銓評委員の選挙を指示。村議員は一筆毎の地位銓評に取りかかり他方、郡議員は11月5日、勝川にて初の会合を持ち議長に和爾良(かにら)村林金兵衛を選出。しかし一筆毎の銓評が確定しないまま一村毎の等級を銓評し承認させると言った県が決めた銓評順序を無視した方法に林金兵衛以下郡議員は反対、荒木利定はすかさず翌6日、村位決定まで鎌止め令(作物の刈り取り禁止)を出し強引な手法でその決定を迫り、秋の刈り入れを禁止された農民は鎌止め令解禁を引き換えに見込みの村位を受け入れる事となった。

●春日井郡各村位等級(田方) ※赤字−現守山区
一等児玉 東志賀 光音寺 下飯田 堀越 新福寺
二等西志賀 辻村 稲生 山田 上飯田 安井 名塚
三等石橋 北野 鍛冶一色 法成寺 徳重 中小田井 下中切 中之郷 田幡 杉村 枇杷島
四等 井瀬木 能田 久地野 比良 西之保 沖村 野崎 弥勒寺 宇福寺 九之坪 朝日 下之郷
清洲 鹿田 平田 下小田井 市場 落合 大幸 矢田 福徳 大曽根 二子
五等大永寺 西田中 阿原 大野木 上小田井 高田寺 六ツ師 鍋屋上野
六等 片場 成願寺 川村 守山 幸心 土器野新田 寺野 堀江 須ヶ口 助七新田 小場塚新田 市之久田
熊之庄 大気 薬師寺 小針 岩崎 本庄 二重堀 豊場 南外山 池之内 間々 間々原新田 牛山
七等 青山 北外山 瀬古 大森垣外 牛牧 金屋坊 気噴 上大留 下大留 藤島 小針己新田 野口 林村
小松寺 小牧原新田 小牧 如意
八等 岩崎原新田 春日寺入鹿新田 上末 大草 大手 北外山入鹿新田 松河戸 中切 牛毛 野田 名栗 
和爾良 関田 堀ノ内 小木 田中 久保一色 坂場 喜惣治新田 村中 稲葉 船津 加嶋新田 下条
九等 小針入鹿新田 三ッ淵 春日井 田楽 味鋺 下市場 出川 高蔵寺 神明 下志段味 白山 松本
上野 吉根 神領 桜佐 下原 下原新田 大森 小幡 猪子石原 文津 新居
十等西ノ島 入鹿出新田 中志段味 中水野 下水野 三郷 大手池新田 今村 勝川
十一等 稲口新田 如意申新田 廻間 中品野 下品野 上水野 赤津 河内屋新田 上条新田 下津尾 
味鋺原新田 瀬戸 美濃池 大泉寺新田
十二等坂下 三ツ淵原新田 大手酉新田 下半田川 上半田川 上品野 明知 西尾 外ノ原 神屋 森孝新田
十三等内津 白岩 片草 沓掛  他村位不明有り


●収穫高の確定を迫る
明治10(1877)年3月17日、県は見込みの村位に基づきその収穫高の確定を命ずる。しかし一筆毎の地位詮議が確定していない中での収穫高の確定は困難と郡議員代表林金兵衛は拒否。同3月21日林金兵衛が病気により郡議会を欠席する隙をつき収穫高決定を再度強要。林金兵衛はこれを不満とし3月28日辞表を提出、後任は荒木利定の指示により開田村堀尾茂助が選任され、翌29日議事所が勝川より名古屋に移され春日井より遠ざけられる。
同4月14日収穫高予定書を県に提出、不受理となる。5月3日前回より収穫高を増加し再提出、又も不受理。6月16日県は自らが作成した村単位の収穫高を押しつけ確定とし村単位の地租が決定された(一例として初回4月14日提出分1石800 → 6月16日県により押し付けられた収穫高2石230)。地租改正前と比べ春日井郡全体に於いては15.6%の増加となり、春日井郡西部の村々ではその増加率が郡全体を下回り減租、東部では増租となり、春日井郡43ヶ村中東部36ヶ村による地租改正反対運動へと発展したが減租、増租と村々の足並みは揃わず、明治13(1880)年2月5日、春日井郡が西春日井郡と東春日井郡に分裂する遠因となった。


●春日井郡の地租改正反対運動始まる
明治10(1877)年6月22日、局長荒木利定は郡議員を招集、収穫分賦書の受取を命じ24日迄には多くの村々が受入れるも40ヶ村が拒否。「徒に官命に背戻し官の措置に抵抗せば朝敵なり かかる者は断じて皇国の地に住するを許さず 速かに家族共々外国の地に追放すべし」と脅迫的に迫りこれにより当初受取を拒否した村々の一部は受諾するも、反対運動の中心林金兵衛率いる和爾良村始め多くの村々が一貫して拒否の姿勢を貫く、やがてこの林金兵衛の姿勢に共感した村々が受諾を再度拒否、反対運動は本格化そして泥沼化する。
県はその打開策として強引に迫った局長荒木利定を同年9月28日罷免、11月25日新租による納入を命ずるが和爾良村始め4ヶ村が拒否、そして逆に県に対し「伺」書を提出するがこれを県側が却下。その後1ヶ村が脱落するがこの問題を東京地租改正事務局に直接提訴する為、明治11(1878)年1月29日林金兵衛ら3ヶ村代表が嘆願書を携え東京へ向かう。この動きにいったん承諾した村4ヶ村が同調し林金兵衛に合流。「地租御改正の儀に付哀願書」「同副哀願書」を改正事務局に提出。しかし同年3月28日改正事務局は却下、この哀(嘆)願書不受理の件を耳にした福沢諭吉が助力を申し出る。やがて地元春日井郡に於いても林金兵衛らの懸命さが伝わり36ヶ村が新たに提訴に参加、43ヶ村による統一哀(嘆)願書が福沢諭吉の助言を得再度提出されるもまたも却下。そして3度目、「県庁にて再調査し本局に再提出するなら本局に於いても再調査あり得る」との回答を得るに至り一行は東京を離れる。

帰国した一行は県に対し再調査を申し出るが県の回答は全体の分賦は不変とし、各村々の分賦の変更に留めると回答。減租、増租の村々の対立をあおる事となる。
同年10月17日、これを打開すべく林金兵衛は明治天皇行幸に随行する地租改正事務局総裁大隈重信に嘆願するため京都へ向かう。しかし血気にはやる農民は天皇への直訴を画策、林金兵衛は急ぎ帰り10月25日、天皇名古屋行幸当日三階橋(名古屋市北区−守山区瀬古地内)に集まった4〜5千人の群集に向かい自身の命・財産を引き換えに直訴を思いとどまらせる。
林金兵衛はその後再び上京、改めて嘆願書を提出するも改正事務局は不採用。11月24日村人有志ら400名余りが暴徒の如く農車に米俵など積み東京へ向け出発、浜松にて警察官により解散を命じられる事件が起き、そして12月に入ると農民は竹槍など用意し一揆を企てるがこれも阻止される。
明治12(1879)年1月、春日井郡(第三大区)区長天野佐兵衛が県の意向を受け、八方塞がりの難局を解決する為旧藩主徳川慶勝(よしかつ)の元への出頭通知状を携え在京中の林金兵衛と会談。
幕藩体制が崩れたとはいえ尾張徳川家の威光はまだ厳然とあり、2月4日会談の結果徳川家より救済金3万5千円(徳川家より5万円を借受3万5千円を受取る、徳川家は1万5千円を元本としその利子を返済に充てる)を賜り、明治14年からの地価更訂を県が保証するを条件に帰郷、2月27日村民納得の上2年に渡った騒動は終局した。(尚この尾張徳川家が用意した資金については、明治政府が事の終結のため密かに出資された物で、他県に政府による救済が行われた事が流布し同様の争議が起こる事を恐れた明治政府と尾張徳川家の密約の元に行われた節もある。)

しかしこの後同年春には反対運動に加わった43ヶ村同様の救済を求め他の村々が集結、県に嘆願書を提出、夏には更に代表が上京、地租改正事務局に同様の嘆願書を提出する等、明治14年からの地価更訂を県が保証するという約束を取り付けるに至りようやく騒動は終わった。
騒動は終わったが小作人の暮らしが楽になったわけではなく、地租改正は土地所有者(地主・自作農)の年貢を廃し金納としたが、小作関係には言及しておらず、小作人は小作料を相変わらず現物として地主納めるといった形態のまま。地租改正により国の租税は増えたが、それは小作料の引き上げとなって現れ、小作人の負担は旧来より増し収穫の5割以上を納めなければならない所もあり、小作人の暮らしは以前にも増し厳しいものとなった。

明治14(1881)年より始まったデフレ政策により米価が下落、小作農は物納後の手元に残る収益は収穫高の13%程と激減する所も出るなど困窮を極め、明治16(1883)年東春日井郡始め102ヶ村が地租延納を県に嘆願しこれを認めさす。翌17(1884)年3月、東春日井郡川村は「減租ノ恩命ヲ下賜セラレン事ヲ・・・」と記した嘆願書を県に提出。続けて同小幡村始め8ヶ村、愛知、碧海、海西、海東の愛知県下各郡も同様の嘆願書を県に提出、しかしこれら減租の嘆願は受け入れられなかった。
政府は当初の地価3%は暫定値とし5年後の見直しを約していたが、明治13(1880)年、明治18(1885)年までの地価を据え置くと発表、さらに同18年が近づくと旧地租改正条例廃止、新地租条例を制定と一方的に発表、農民らの嘆願は受け入れられることなく運動は衰退していった。

●林金兵衛とは
文政8(1825)年1月1日、木曽義仲の重臣今井兼平の末裔旧上条城主小坂氏(後林と改姓)の子孫、上条村大庄屋林家にて父重郷の2男(林家15代)として誕生、幼名亀千代、長じて通称太助または仙右衛門。嘉永2(1849)年家督を継ぎ金兵衛を名乗り、安政5(1858)年水野代官所総庄屋に就く。
少年時代に水戸学を学び戊辰戦争では慶応4(1868)年1月農民など草莽で組織した草薙隊を組織し御所の守備に就き官軍に協力、甲信越に従軍、1年後解散帰農。また地租改正反対運動に於いて厚誼を得た福沢諭吉とは同氏が提唱した「交詢社(日本最初の実業家社交クラブ)」設立に尽力した。

明治12(1879)年3月第一回県会議員選挙にて最高得票で当選。明治13(1880)年2月5日春日井郡が東西分裂のおり初代東春日井郡長に就任、明治14(1881)年3月1日地租改正反対運動終結の翌年その心労のためか57歳にて死去、菩提寺泰岳寺に葬られる。字(あざな)を重勝、贈従五位。

写真左 林金兵衛
写真右 林家に隣接する上条城跡に建つ林金兵衛顕彰碑


参考文献
愛知民衆運動の歴史    伊藤英一著 ブックショップマイタウン
春日井の空、鐘を鳴らすな 近藤雅英著 羅針社
守山区の歴史       愛知郷土史刊行会