●四つの開拓団

明治時代、禄を離れた士族の救済に授産資金や勧農資金制度が施行され、愛知県においては明治3年(1870年)、帰田法が制定され尾張徳川家の肝入りで士族による北海道八雲村の開拓が行われた。しかし他による移住はそれほどの成果もなく明治20年(1887年)救済制度は打ち切られた。
その後の移住は公的ではなく一般によるものとなり、明治25〜大正11年(1892〜1922年)頃まで約30年間一般の人々による移住は続き、守山(当時)では長万部村、生振(おやふる)原野、愛別原野、山越内村、忠別原野へ志段味、吉根、大森垣外、小幡の各村々から移住があり、また遠別原野へは明治29年(1896年)の水害により農地を失った二城、大永寺、大森の各村々の人が移住、しかしその過酷さから定着する事は容易では無かった。
その後大正時代末期から昭和時代初頭には国内不況など様々な事を起因として海外移住が始り、開拓団が結成され海外へ渡る人々が出現。昭和11年(1936年)には「満州開拓移民推進計画」満蒙開拓団が国主導で実施された。
愛知県では開墾事業特別補助費が創設され水源確保、新田開発が奨励され耕地が大幅に増えていったが、やがて戦時色が強くなった昭和16年(1941年)、緊急の食糧自給強化のため農地造成、改良を促進する農地開発法が制定されたが終戦を迎えた成果を上げるまでには至らなかった。
戦後愛知県は昭和20年(1945年)9月、就農対策本部規定を制定、軍及び軍需産業の解体による失業者対策、海外からの引揚げ者・復員兵の定住、疲弊した都市生活者の救済、そして食糧不足の改善と荒廃した国土の整備を急ぎ、志段味、吉根、小幡地区を対象として昭和20年(1945年)10月に就農対策相談室が開設され、入植地への斡旋が行われるようになった。


関連法令・訓令(一部抜粋)
農地開発法(昭和16年3月12日公布、昭和24年6月6日法律失効)
愛知県就農対策本部規定(昭和20年9月29日 愛知県訓令)
緊急開拓事業実施要項(昭和20年11月9日 閣議決定)
開拓課の設置・開拓指導所の設置(昭和21年4月9・30日 愛知県訓令)
自作農創設特別措置法(昭和21年10月21日公布、昭和27年7月15日廃止)
緊急開拓入植者取扱い要項(昭和22年4月1日 愛知県農地部)
開拓地農村建設方針(昭和22年8月 農林省開拓局)
開拓営農振興臨時措置法(昭和32年4月6日公布、昭和44年12月8日最終改正)

-●(D)-上志段味東谷山地区(東谷山西麓)
●開拓組合名:東谷山開拓農業協同組合
 地区面積:24.2ha
 入植戸数(計画):15(15)
 増反戸数:17

昭和20年(1945年)9月、18世帯が県有林、村有林の開発許可を得て開墾。その出身地は志段味村(当時)2戸、守山町(当時)9戸、名古屋市(当時)7戸。その後離散者補充で他県からの入植者を迎え15世帯が定着。前職は軍需工場従業員、公務員、復員軍人、商人等で農業経験者は見られなかった。
昭和22年(1947年)一帯の土地は政府が買上げ開拓地として昭和27・30年(1952・1955年)に入植者、増反者に売却され開墾は一応完了した。
戦後すぐ何もない頃の入植で住居は近隣の春日井市旧軍弾薬庫・森孝新田旧兵舎解体材で作られた6〜10坪ほどの住宅、生活水はつるべ井戸が掘られ渇水期には度々枯渇、昭和27年(1952年)に電気が引かれるまではランプで生活、水道水が引かれたのは昭和49年(1974年)であった。
入植当時、やせた土地で芋・麦等を栽培、その後国の融資を受け、たくあん漬け、製粉、製麺、製材業組織を作り活動を続けたが昭和33年(1958年)事業に行き詰り解散。
入植者の生活は苦しく農業収入だけでは生活できず兼業農家化し日雇い労働者として生計を維持。昭和34年(1959年)伊勢湾台風により甚大な被害を受けたが入植地を維持、入植者はその地区の農地売買には組合員の承諾を得るという申し渡しがされた。昭和36年(1961年)には愛知用水が開通、地味が薄い耕地は反面水はけがよいという特性を生かすべく農業指導員らの指導により果樹栽培、特にブドウ栽培に着目。各種農業振興事業資金を活用し集荷場、大型農機具が導入され観光ブドウ園を開設。ブドウ栽培と並び養鶏事業にも着手、それぞれ組合が設立され生活基盤が確保されていった。

-●(C)-中志段味諏訪原地区(尾張旭市境、滝ノ水池北・安田池北西側)
●開拓組合名:諏訪原開拓農業協同組合
 地区面積:38.8ha
 入植戸数(計画):15(15)
 増反戸数:32

標高55〜80m程の緩やかな丘陵地で土質は他の開拓地に比べやや良好。戦時中には軍農耕隊により一部開墾が行われ、また地下には亜炭鉱脈があり、開拓者入植以前既に炭坑従事者の住居が所々にあり、時には入植者との間にトラブルもあったという。
戦後、昭和20年(1945年)土地所有者より土地を借受けた入植者により開墾が始まり、その後昭和22〜23年(1947〜1948年)、国による土地買収が行われた。
入植者の内訳は当初、名古屋市(当時)6戸、瀬戸市8戸、春日井市1戸。資金不足などの離散者の補充として、瀬戸市を中心とした陶磁器産業を離職した人々を補充要員とした。その後志段味村(当時)2戸、瀬戸市・春日井市各1戸、その他農林省の募集に応じ長野県から5戸、岐阜県から1戸、入植者として15戸が定住した。
前職は当初の入植者は軍需工場従業員、陶工などでその後の入植者は農家出身者であった。同地区の特色は周辺部に小規模農家が多くあり、開拓地への増反者も少なくなかった。これら増反者への土地払い下げは入植者優先のため入植者1戸辺り1.23haに対し0.27haと少なかった。
入植当時は他開拓地と同様、粗末な住居、井戸水も時には貰い水をする状態で全戸に電気が通じたのは昭和27年(1952年)。しかしながら同地区への入植者は近隣都市出身者が多く、その一部の入植者は入植後1〜2年は自宅(入植地以外)から通所していた者も有ったという。
諏訪原地区では当初、東谷山地区開拓団と就農組合を設立、開墾、住宅建設などをしていたが昭和23年(1948年)分離。昭和25年(1950年)、東谷山地区と一体化した志段味地区開拓計画が策定され補助事業により幹線道路が2本開通。開墾は昭和27〜28年(1952〜1953年)を以てその後一部再造成があったものの終了、開拓農協は昭和43年(1968年)10月解散、事業は終了した。
開拓農家は牛・豚・鶏の飼育をはじめ芋類、麦、野菜、果樹栽培と都市近郊農業を方策し昭和30年代には機械力を導入し販路を拡大し農業経営は安定した。昭和34年(1959年)、伊勢湾台風にて秋野菜・果樹栽培が全滅、農家は急速に営農意欲を喪失し昭和47年(1972年)には専業農家はわずか4戸にまで減少。後継者不足、都市の拡大により住宅地として土地売却が始り開拓地はその姿を変えていった。

-●(B)-下志段味長廻間地区(尾張旭市境、現志段味スポーツランド辺り)
●開拓組合名:長廻間就農組合
 地区面積:6.7ha
 入植戸数(計画):5(5)
 増反戸数:0

守山区と尾張旭市との境、標高100m弱、起伏に富んだ7ha程の小さな雑木林の伐採跡地。昭和26年(1951年)農地委員会の計画に基づき国が買収を行い開拓地となった。しかしながら昭和22年(1947年)、既に土地所有者より買取りを条件に2名の開拓者が個人的開墾を行われていた。またこの地区においても亜炭採鉱事業が既に行なわれており、住み分けが行われたが、時にはトラブルの発生あったという。
国の開拓事業化後2戸が追加入植、その出身地は名古屋市(当時)、尾張旭市、三重県の戦災商人等。その後2戸が離農、3戸の村内、名古屋市(当時)、長野県の農家、商人、会社員出身者が新たに入植し5戸となり、土地改良、住宅、井戸、電気導入等国の助成金対象事業となり就農組合も結成された。開墾の終了は助成が遅かったこともあり昭和39年(1964年)であった。
入植当時、非助成金入植の為資金難に陥った入植者2戸が離農、その後酪農家1戸を除き、4戸が果樹栽培に活路を求めたが生活は苦しく日雇い労働者としての副収入にて生活を支えた。昭和33年(1958年)、国の助成金事業となって後は生活基盤も整い昭和39年(1964年)以降は畜産収入にて生活は向上したという。しかし昭和43年(1968年)東名高速道路がこの地区を縦断。3戸が土地の多くの売却を余儀なくされ、やがて市街地化が進み酪農家は移転し専業農家としての営農は困難となり、やがて土地売却益などにより金銭的に比較的恵まれた農家も出現した。

-●(A)-小幡ヶ原地区(県道名古屋多治見線<龍泉寺街道>東側一帯)
●開拓組合名:小幡ヶ原開拓農業協同組合
 地区面積:77.2ha
 入植戸数(計画):22(22)
 増反戸数:330

この地区は「原野に鍬を打ち込む」といった他の開拓地とその成立過程が異なり、すでに軍用地として拓かれていた。しかし過酷な事は他の入植地と同じで、入植当時は旧軍隊の兵舎に住み、廃材で建てた12坪ほどの粗末な家屋に住み、電灯は昭和28年(1953年)までなく、現金収入を得る為日雇い労働に出るなど当初の労苦は過酷なものであったという。
明治29年(1896年)名古屋の第3師団に創設された歩兵第33連隊が翌明治30年(1897年)守山に移駐、小幡ヶ原を演習地として使用開始。戦後、軍が解体され演習場は緊急開拓地として国の要請をを受け守山町(当時)が町内希望者を対象に開墾をはじめた。
この辺りは元々軍を支えるべく生活環境がある程度完備されていた事もあり人々は入植地に入り無秩序な開墾を始めた。昭和23年(1948年)土地売渡しを期に不的確入植者の選別が行なわれ、引揚げ者、復員者を中心に土地の売渡しを決定。当初25戸が選ばれたが離散などあり昭和25年(1950年)に18戸が入植。出身地は地元守山町(当時)14戸、他名古屋市(当時)、春日井市、小牧市で12戸は海外からの引揚げ者。前職は軍人、工員、教員、小売業、農業などさまざまで、その後昭和30年(1955年)長野県から4戸、名古屋市(当時)から1戸が補充入植し、22戸の開拓者が定住、そして増反戸数は330戸もあり人気物件のようであった。
当初入植者で農業経験者は8戸のみで大変だったようだが、昭和28年(1953年)5月小幡ヶ原開拓農協が設立され、小麦、サツマイモなどを作付け、その後土壌改良がなされ作付け面積も広がり昭和33年頃には酪農、畜産、果樹栽培など軌道に乗り名古屋方面へ出荷されるようになり営農は安定化、昭和44年(1969年)組合は開拓の一応の終了を以て解散した。
昭和35年(1960年)頃より広い開拓地は宅地として再度開発の手が入り、昭和45年(1970年)には市街化区域に指定され農家は激減、1ha以上の農地を持つ農家はわずか2戸となり、昭和46年(1971年)には守山区役所が当地に移転しベットタウン化の勢いはより増加し、守山区の顔的地域として発展、当初の営農家は少数派となり土地売却資金による富裕な人も出現した。

入植者:
自作農となるため、開拓地(※)に移住し、当該地区内の土地にて耕作に従事、又は移住はしないがその地区内の土地についてのみ耕作を行う者。
増反者:
開拓地の近にて現に耕作を行う者で、農業経営の改善を図るため、当該地区にて耕作面積の拡張を行う者。
開拓地とは、国が開拓用地として取得し開拓事業に着手することになつた地区。
★1ha(ヘクタール)は10,000u、おおよそ3,030坪。東京ドームの敷地は約11haです。

出典:愛知県開拓史(1〜3)