●松ヶ洞・川東山地区の古墳
※遺跡位置は「守山区遺跡分布図」の頁に有ります。

●松ヶ洞古墳群

松ヶ洞は小幡地区と吉根志段味地区を隔てる峠をなしており竜泉寺丘陵南西の丘陵先端部分、庄内川を眼下に濃尾平野を見下ろす所で古墳築造には好適の地。古い字名を「松ヶ洞」と言いよって松ヶ洞古墳群という。
古墳群は愛知県道15号名古屋多治見線(龍泉寺街道)を挟み標高55mと古墳群では比較低い所にある1〜4号の北支群、それよりやや標高の高い65〜80m程、県道を挟み南東の尾根に点在する5〜16号の中央支群。中央支群は標高66〜75m程に点在する6〜11号の中央西グループと標高79〜80m程にある12〜16号の中央東グループに分けられる。中央支群よりさらに道を挟み南東に17〜19号の南支群がある。
これら古墳は19基の五世紀後半〜六世紀前半、古墳時代中期後葉〜後期前葉の短い間に築造された8〜20m程の小規模な一族またはその長などが葬られた円墳や方墳からなる群集墳。南の谷を挟み対向する丘陵地(小幡緑地公園本園)にある3基の小幡緑地古墳群を含め22基とする意見もあり、また昭和30年代の発掘時には26基の古墳があったという。
松ヶ洞古墳群は五世紀末、小幡・守山地区の集団が前方後円墳を作り始めた頃、同地区の勢力は小型古墳築造に終始しており、独立した小勢力または小幡・守山勢力に従属した集団だった可能性も考えられる。
また出土物から8・9号墳を盟主とするグループと13号墳を盟主とするグルプの存在が想像され、一帯は古くは龍泉寺の寺領であり、森は手つかずの状態で古墳など非常に原型を保っていたが、近世は寺領が開放され宅地開発された事により多くの古墳が滅失した。


埋蔵文化財調査報告書89より   ●■:現存古墳 〇□:滅失古墳 

県道名古屋多治見線(龍泉寺街道)北西側の松ヶ洞1〜4号墳辺りの雑木林

写真左 1〜4号墳(北支群)辺りの切通し道
写真右 県道南東側の5〜19号墳(中央・南支群)辺りの雑木林
    年々宅地化が進みこの森もやがては無くなる可能性が大である。
松ヶ洞1号墳北支群 直径7.5m、高さ50cmの円墳。滅失
松ヶ洞2号墳北支群 1号墳の南約50m。直径14m、高さ1.3cmの円墳。30〜50cmの川原石が従来は散乱。坩状の須恵器片を採取。
松ヶ洞3号墳北支群 号墳の西約30m。龍泉寺城北、直径15m、高さ1.6mの円墳。北支群中最大。
松ヶ洞4号墳北支群 2号墳の南西約20m、3号墳前。直径10m、高さ1mの円墳。滅失
松ヶ洞5号墳中央支群 西グループ南西端。標高約75mの県道に沿った丘陵部先端に位置する。直径9m、高さ1mの円墳。滅失
松ヶ洞6号墳中央支群 西グループ5号墳北東約20m。直径9m、高さ75cmの円墳。滅失
松ヶ洞7号墳中央支群 西グループ6号墳北東約20m。直径10m、高さ1mの円墳。滅失
松ヶ洞8号墳
8号墳想像図(イラスト:筆者)
左写真:出土時の埴輪列。『守山市史』より
中央支群 西グループ7号墳東約30m。
小小さな円墳の群集墳の中、一辺8.4m、高さ1m余り、墳長平坦面の広さは一辺3.4m程の五世紀末の小型方墳。全体を巡る周溝が認められた。
発掘調査の結果、墳丘裾部分より円筒埴輪列、朝顔型埴輪など出土、総計64個程が四辺を囲っていたと思われるがその半数程35個体が確認された。また脚付七連杯、大型須恵器片、粘土槨に覆われた墓室には酸化鉄朱で赤く染まった2.4m、2.6mの二つの割竹型木棺が直葬されていた。棺内からは六鈴鏡、蕨手文鏡、勾玉、色ガラス玉、鉄剣、刀子、鉄鏃等が出土。墳丘部からは葺石と円筒埴輪、朝顔型埴輪、須恵器大甕、頂部からは
家型埴輪(高さ66cm・間口55cm・奥行29cm)等多くの出土物があり小型古墳の割に多くの出土物、特に鏡、鉄剣等が出土し武人と女性が葬られていた可能性が高くこの群集墳のリーダー的人物ではないかと思われる。出土物は現在名古屋市博物館に保管展示されている。
松ヶ洞9号墳中央支群 西グループ8号墳北東約20m。13号墳つぎ古墳群中二番目に大きい直径16m、高さ1.5mの円墳。六世紀初頭。粘土槨2基、木棺直葬1基と合計3基が良好な状態で出土し一部に赤色顔料が認められた。北棺内からは直刀、刀子、鉄鏃、鉄製馬具が、中央棺からは直刀、鉄鏃が出土、棺上から馬具(辻金具、方形革帯金具のセット)が出土。南棺内からは刀子のみの出土があった。墳丘裾からは須恵器(壺、坏)、円筒埴輪が出土。
松ヶ洞10号墳中央支群 中央支群 西グループ9号墳西約15m。直径約7.5m、高さ0.5m程の円墳。墳丘の荒廃により詳細は不明。中央支群 西グループ9号墳西約15m。直径約7.5m、高さ0.5m程の円墳。墳丘の荒廃により詳細は不明。
松ヶ洞11号墳中央支群 中央支群 西グループ9号墳東約30m。直径12m、高さ1mの円墳。赤色土の分布はあるが埋葬施設のなどの詳細は不明。
松ヶ洞12号墳中央支群 中央支群 西グループ11号墳北東約60m。直径12m、高さ1mの円墳と思われるが、道路などに切り崩されていて不明な部分が多い。
松ヶ洞13号墳中央支群 東グループ12号墳北東約20m。直径17.5m、南北に張出部(造出部)があり全長では約20mの古墳群中最大の円墳。未盗掘と思われたが墳丘などは既に破壊されており、墳丘西裾より須恵器、円筒埴輪、葺き石が出土、南北を軸とした割竹形木棺痕があったが副葬品の出土は多くなく、周溝は認められない。滅失
松ヶ洞14号墳中央支群 東グループ13号墳北東約15m。一辺10m程の方墳。幅1.5〜1.8mの周溝遺構が認められる。須恵器片が出土、過去に直刀の出土の記録有るも所在不明。発掘時墳丘はすでに扁平に均されており遺物の出土など詳細は不明。滅失
松ヶ洞15号墳中央支群 東グループ14号墳約北東30m。円丘部径10m、高さ1mの円墳。しかしながら2,6mの張出部(造出部)をもつなど特徴的な円墳で周溝を検出。墳丘より南東から北東を主軸として2基の木棺直葬の未盗掘の埋葬施設を検出、水銀朱が見られたが棺内からの遺物の出土はなく、ヘラ目の残る円筒埴輪が数個体分出土したが「尾張型埴輪」とは異なる、尾張型埴輪出現前段階の特徴をもっていて、同古墳群の系譜など考えるうえで重要な古墳である。滅失
松ヶ洞16号墳中央支群 東グループ14号墳約東40m。直径10m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞17号墳東支群 東グループ16号墳東30mの丘陵。直径10m、高さ1mの円墳。
2017年夏、宅地化のため滅失。
松ヶ洞18号墳

東支群
 南グループ17号墳約南西50m。標高82m、南支群の頂上部にある15.2×13.8m、高さ1.36mの円墳。発掘時墳丘東半分には縁に沿って二突帯三段の縦横の回転台を使用したと思われるヘラ目のある円筒埴輪が認められ、築造時には全体を覆っていたと思われる。埋葬施設は尾根に沿って一基の木棺が確認。棺内は水銀朱により赤彩が施され、刀子、管玉、ガラス小玉が副葬されていた。また8号墳同様同18号墳でも入母屋作り型の家形埴輪が出土、墳頂に置かれていたものと思われる。その他多くの須恵器が出土し、築造は五世紀末〜六世紀初頭た考えられる。2020年(令和2)3月宅地開発のため緊急発掘され調査が滅失した。
写真上 手前の穴が円筒埴輪を掘りだした跡
写真下 宅地化された古墳跡。写真上方白い建物辺りが17号墳、手前の更地が18号墳付近
松ヶ洞19号墳
東支群
 南グループ18号墳約北20m。墳頂部標高82.6m、直径9.6m、刳抜式全長2.4mの木棺直葬。棺内は赤彩されておらず周辺から滑石製句玉が多数出土。北から南へ高くなる高さ1.1mの円墳。この様なつくりは5・6・7・10・11号墳と同様。
丘陵尾根線状に立地するこのような小型円墳はかつては「倍塚」または築造の省力化があるのではないかと思われていたが、同古墳群では墳丘規模の大小が必ずしも築造者の優劣とは結び付かないと研究者は言う。墳体に多くの葺石があり、一帯では3030個を数え、これらは庄内川の砂礫堆のチャート礫(堆積岩)を主体として用いられていた。周溝は全周せず北側のみにあり、これは18号墳との境界を示すものと思われる。古墳周辺からは壺、高坏など須恵器や土師器の出土があったがその数は少なく、埴輪列も出土物しなかった。18号墳に続き2020年(令和2)4月頃より発掘調査がされ調査後滅失。
写真上 発掘された墳体

●小幡緑地1〜3号墳
小幡緑地公園芝生広場北の小さな舌状尾根の先端部に位置する3基の古墳。
旧古墳台帳では松ヶ洞古墳群の一つと数えられていたが松ヶ洞古墳群とは異なる丘陵面のため独立した古墳群とされた。
雑木林の中にわずかにマウンド状の高まりを見ることが出来るが、一面の雑木林で案内板などなく古墳を見つけるのは容易ではない。
小幡緑地1号墳
(旧松ケ洞20号墳)
直径15m、高0.6m程の円墳。残存
小幡緑地2号墳
(旧松ケ洞21号墳)
直径15m、高1.2m程の円墳。一部削られているが残存
小幡緑地3号墳
(旧松ケ洞22号墳)
直径18m、高2.0m程の円墳。残存

●川東山古墳群
松ヶ洞古墳群南西1km程、小幡丘陵の浸食谷から流れ出た白沢川が西に流れ丘陵先端で北へ流れを変え庄内川に合流する辺りの丘陵のへり及び頂部にある9基の小規模な円墳からなる古墳群。築造時期ははっきりとしないが概ね六世紀後葉〜七世紀前葉の短い間に集中的に作られた古墳群。
一帯は川東山耕地整理事業により、また1〜4号墳辺りは1973年(昭和48)頃から断続的に実施された名古屋環状二号線の建設工事により地形が大きく変わり古墳群のほとんどが滅失している。
川東山1号墳西グループ 川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にあるにある直径35m、高さ1mの横穴式石室を持つ円墳。石室内から馬具、太刀、短刀、刀子、鉄鏃、水晶製切子玉など、墳丘上からは蓋杯、高坏など須恵器が出土。土地区画整理のため発掘調査のち滅失。
川東山2号墳西グループ 1号墳の北約20m。川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にあるにある直径10m、高さ1m。長さ4m、最大幅1.5mの西南に開口した横穴式石室を持つ円墳。玄室の床には敷石が施され開口部側には閉塞石が認められた。短刀、刀子、甕、壺、蓋杯、高坏類など須恵器が出土。土地区画整理のため発掘調査のち滅失。
川東山3号墳西グループ 2号墳の東約15m。川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にあるにある直径12m、高さ1mの円墳。土師器片が出土。土地区画整理のため発掘調査のち滅失。
川東山4号墳西グループ 3号墳の南約15m。川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にあるにある直径15m、高さ1mの円墳。墳丘南で多量の円筒・朝顔型埴輪片が出土、円筒埴輪には古墳時代前期的特徴のある尾張型と異なる特徴のある縦の刷毛目が認められる。しかし出土した須恵器(蓋杯)などは古墳時代後期のものと思われ、西グループの中では古いタイプで六世紀前葉の築造と考えられているが判然としない。土地区画整理のため発掘調査のち滅失。
川東山5号墳西グループ 4号墳の北約500m。竜泉寺丘陵先端、丘陵頂部の庄内川を望む断崖上。標高58〜62m程。直径15m、高さ1mの円墳。南に川東山遺跡がある。滅失
川東山6号墳東グループ 5号墳の南東約200m。竜泉寺丘陵先端、丘陵頂部の庄内川を望む断崖上。標高58〜62m程。直径5m。不整形な円墳。南に川東山遺跡がある。滅失
川東山7号墳東グループ 6号墳南約40m。川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にある直径16m、高さ1.5mの円墳。横穴式石室内に長さ2m、幅1m、高さ1m程の組合せ石棺が収められており、他に直刀、須恵器等出土した。川東山耕地整理事業の際破壊され滅失した。
川東山8号墳東グループ 7号墳北約40m。川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にある直径20m、高さ1mほどの円墳と思われるが遺構など見つかっておらず、鶏形須恵器片、短頸壷、漆喰状白顔料が付着した脚付短頸壷片等が出土した事から古墳が存在した可能性は高いが明確な場所などは不明。なお出土した鶏型つまみをもつ須恵器は東海地方の特徴をよく示しており出土例は20例に満たない。店舗建設のため発掘のち滅失。
川東山9号墳 東グループ 8号墳南西約30m、川東山丘陵南麓、標高32〜42m程にあるにある直径15m、高さ1mの円墳。松坂公園(松坂町)東南角に築山としてそのイメージが復元されている。
川山頂古墳 1923年(大正12)東春日井郡役所編の『東春日井郡誌』によれば同古墳の出土品として直刀、平瓶、堤瓶、広口壷、蓋杯の出土が報告されていて、直刀の箱書きには「大正八年四月於東春日井郡守山町大字川山頂出土」と記されているが、現在この古墳が何処にあったかは不明。
川東山遺跡 標高57〜63mの竜泉寺丘陵の先端、庄内川を見下ろす所にある。
住宅建築に伴い発掘され、古墳時代の遺構として周溝を伴う一辺5〜6mの小型方墳1基が確認されされたが墳丘は残存していなかった。周溝からは壺など土師器が出土、築造は五世紀前半と思われるが他に出土した須恵器は朝鮮半島出土のものと類似していてその時期は五世紀後半〜六世紀初頭の物で詳細は不明。他に縄文時代晩期〜弥生時代前期の土器棺2基が出土。一帯は縄文晩期〜弥生前期において墓域として存在していたと考えられる。

川東山古墳群は1〜4号墳を西支群、5・6号墳を北支群、7〜9号墳を中支群と分類する場合も有る。
川東山古墳群の石材は、戦国時代同所近く白沢川河口付近の丘陵上に織田寛近(?)により築城された川村城(川村北城)のため多くの石材が転用されたと言われ、また1609年(慶長14)名古屋城築城に際しても多く持ち去られたと言われている。


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