かつて小幡ヶ原の玄関口であった名鉄瀬戸線小幡駅前。
今は区を代表する駅前地区となっている。

●小幡ヶ原射撃場(演習場)
写真 龍泉寺街道・翠松園沿いに広がる軍小幡ヶ原演習場。1933年(昭和8)当時。
赤丸は名古屋飛行学校 緑丸は昭和19年に休止、その後廃止された名鉄瀬戸線小幡ヶ原駅。
青丸は現在の名鉄瀬戸線小幡駅。
写真 1921(大正10)頃の小幡が原の写真。下斜め東西に白く見えるのが瀬戸街道。左(西側)上から下南北に細い道が龍泉寺街道。右(東側)に長塚古墳が見え、中央部分が左図黄の部分の小幡ヶ原演習場。瀬戸街道から北東(写真上方)へ延びる直線道路は演習場の兵士が利用した道で「歩兵道(ホーヘーミチ)」と呼ばれた。(目で見る名古屋の100年誌より)

農村地帯であった区内には戦国時代に入ると各地に城(砦)が造られ織田、武田氏等がその覇を競っていた。江戸時代には矢田川河原(現名古屋市守山区・東区)に尾張藩砲術練習場が設けられ幕末まで使用されていた。
廃藩置県後、1877年(明治10)陸軍第三師団は東春日井郡小幡村(現守山区小幡)に296万余坪を購入し大砲射的場を開設。その後地元有志による土地の提供による軍の誘致活動などもあり、1896年(明治29)名古屋の第三師団に創設された歩兵第33連隊が翌1897年(明治30)守山に移駐する事となった。その後1928年(昭和3)騎兵第三連隊が駐屯、満州事変等で活躍。1943年(昭和18)捜索隊と改名、歩兵部隊に配属。戦後1945年(昭和20)11月アメリカ軍が駐屯、第五空軍司令部となる。米軍が撤収後1959年(昭和34)陸上自衛隊第10混成部隊が移駐、現在地の第10師団司令部と受け継がれてきた。
小幡ヶ原は標高30〜40mの微高地に位置し、江戸時代には尾張藩の狩り場、そして1873年(明治6)名古屋鎮台の創設と共に翌年軍用地とされ、小幡ヶ原は終戦時まで突撃・砲撃訓練、戦闘機の発着訓練等が行われ、1927年(昭和2)には昭和天皇陛下のご臨席を賜り特別大演習が挙行された。又演習場内には軍法違反者、脱走者等を処刑した刑場も有ったという。しかしこの攻撃訓練の標的に周辺に有った小幡古墳群の塚が多く利用され破壊消滅してしまった。戦後、1947年(昭和22)軍用地は地元に払い下げられ開拓地として多くの人たちが入植した。
守山の今日はこれら軍施設、そして矢田川対岸一帯の三菱の航空機、同エンジン製造に携わった人々の多くが住み発展の一翼を担った。

当時の演習場付近の丘陵地に建つ自衛隊小幡北山官舎群。



●小幡ヶ原の飛行場 (名古屋飛行学校)

1910年(明治43)末、日本では多くの飛行家が出現、全国を巡回飛行し民間に飛行機ブームが起こり、1913(大正2)年11月には大正天皇を迎え尾張・三河大演習が陸軍により行われ6機の飛行機が本格的に参加した。
1924年(大正13)、軍用機に比べ民間飛行機の事故率の高さを憂えた陸軍航空本部名古屋駐在主席検査官、御原福平中佐は小幡ヶ原陸軍演習場の一部に大島宇吉ら地元有志の援助を受け名古屋飛行学校を開設。教職員には軍出身者12名余、生徒数は操縦科、機関科あわせ30〜40名位、私費入学の学費は二等飛行士の資格を取るまでに千円位と大変高額で、その訓練法は往復ビンタの軍隊式であったという。
飛行学校は今は廃止された名鉄瀬戸線「小幡ヶ原駅」近く、現守山東中学校・菊華高校辺り(上記写真赤丸)に有り、凸凹の滑走路、風が吹けば飛行中止という有様で、もちろん当時の飛行機には計器飛行など有るはずもなく目視で飛行、闇が迫れば火を焚き、車のライトで滑走路を示すと言うものであったという。
1938年(昭和13)国家総動員法が成立、全てが軍事へと突き進む中、飛行士の養成が急務となり、翌1939年(昭和14)名古屋飛行学校は軍に譲渡、閉鎖された。

名古屋飛行学校の評判は良く、海外からの留学生、女性徒も含め多数の卒業生を送り出し、廃校時までには航空士218人、機関士1165人を数えたがその多くは軍に入隊、太平洋戦争で多くの犠牲者を出したが、戦後再開された日本の空を支えた人々も多く輩出したと言う。


上記写真
サルムソン2A-2(陸軍名:乙式一型偵察機)
1918年フランス製。第一次世界大戦末期デビュー、偵察から爆撃まで広範に使用された名機。
日本陸軍が採用、各務ヶ原(岐阜県)の工場で国産化、1922年秋初飛行。現在「かかみがはら航空宇宙博物館」に復元機が展示されている。
全長8.5m・翼長11.8m・260馬力・最大速度185km/h
守山上空を訓練飛行していた複葉機には他アブロ504(イギリス)、ニューポール1/2/3/29、アンリオ、スパッド(フランス)、中島式5型などが有り、中には型式もない寄せ集め部品で造られた怪しげな飛行機も有ったという。


格納庫前に駐機する大島宇吉が社主を務めた新愛知新聞(現中日新聞)社有機。