●桐生悠々「憂国と反骨のジャーナリスト」

明治時代に入り富国強兵を標榜した国策下軍は政治的発言力を増し、それを批判することは反社会的として様々な圧力が加えられた。
桐生悠々(本名政次)、1873年(明治6)金沢の士族の三男として生まれ27歳で東京帝大法学部卒業。学生時代すでに作家活動を始め自活するが、卒業後一転東京府、損害保険会社、編集者など職歴を重ねる。30歳で下野新聞主筆に迎えられ、やがて大阪毎日、大阪朝日、東京朝日、信濃毎日と新聞人として活躍。
第一次信濃毎日時代、乃木希典が明治天皇崩御の後を追って妻と共に自決した事に対して「殉死の美徳」を批判。また政府政友会など社説にて糾弾し各種の圧力により退社。1914年(大正3)新愛知新聞へ主筆として迎えられる。1918年(大正7)7月23日、富山県下新川郡魚津町で起き全国に飛び火した「米騒動」。時の政府はこの様に全国に波及するのは報道する新聞が悪いと同年8月14日「米騒動報道禁止」命令を通達。8月16日新愛知社説にて「新聞紙の食糧攻め、起てよ全国の新聞紙!」と言論の自由、寺内内閣の無能ぶりを批判、名古屋新聞始め東京・関西の報道機関を巻き込む一大キャンペーンとなり9月21日寺内内閣を総辞職に追い込む。悠々はその後再び信濃毎日新聞主筆に復職。この時の名古屋新聞主筆小林橘川(きっせん)は中部日本新聞(現中日新聞)取締役を経て1952年(昭和27)革新系無所属候補として当選名古屋市長を8年半勤める事となる。

1933年(昭和8)軍部が挙行したセレモニー的軍事演習を「関東防空大演習を嗤ふ」と社説にて批判。一般人の戦意高揚、教化を狙った軍部そして在郷軍人会などと衝突、再度信濃毎日を退社。(嗤う:わらう。嘲笑する・あざわらう)
長野を追われた悠々は、同年暮れ新愛知時代に住み慣れた守山区廿軒家に転居。軍部の圧力などで新聞活動が出来なくなった彼は、翌年1934年(昭和9)個人雑誌「名古屋読書会報告」(四六版188×128mm単色刷)を出版、存在しない名古屋読書会の名を借り同書を配布し活動を開始した。やがて15号から書名を「他山の石」と変更。「日本が今アメリカを敵として戦うことは無謀であり、倍旧の友情を温めるのが賢明である」とこの戦いの無謀と友好平和説く。同紙はその後彼の死を持って廃刊するまで八年間、ほぼ月二回発行された。この出版は軍部に睨まれたが、彼のペン先は衰えず既成の新聞を「大衆の意見を代表せず、政府の提灯持ちをしているのみ」と軍部発表記事をただ垂れ流している報道機関にも苦言を呈し、軍国化を憂い、反戦と自由へと邁進する。
彼の生活は本の売り上げ、カンパなどで賄なわれていたが相当苦しかったらしく、「守山町日記、1938年(昭和13)8月23日には、この日私はいよいよ決心して、洋服に下駄履きで外出した。敢えて国策線に沿う訳ではなく、この老ルンペンには靴が買えないからである。靴を修繕する費用にさえも窮しているからである。それでも名義上国策線に沿うていると思うと、何だか心地よい。もろもろの靴を穿いたともがらを睥睨して名古屋市内を闊歩する」と記している。
「同日記8月21日には、今日は今月の第三日曜日に当たるので、印刷所は公休日だ。雑誌は届けられないだろう・・家に帰ると不思議に雑誌が届けられているので助かったと思った。妻はこれに帯封するのに忙しかった。・・昼飯を食っているといつも来訪する勝川警察署(旧自治体警察・現愛知県警春日井警察署)の特高係が来訪した。と同時に私を偵察に来たのだなと思った」と記している。

実に全177冊中、28冊が発禁または削除処分を受けている。県・所轄の特高係そして歩いて十数分の所に位置する連隊(陸軍歩兵第33連隊本部など・現陸上自衛隊守山駐屯地)の憲兵と彼の回りにはいつも偵察・尾行が行われていた。
昭和16(1941)年8月5日号「内閣改造と感情問題」を評論、県特高課に差し押さえられ廃刊の勧告を受ける。
8月20日号「闇の流行」の記事が不安を煽ると発禁、そして9月8日「廃刊の辞」を執筆、そしてこれも発禁処分を受ける。この時すでに彼は内臓を患っており太平洋戦争の始まる3ヶ月前、1941年(昭和16)9月10日、68歳の生涯をとじた。

 度々の休刊に合いながらも出版を続けた「他山の石」


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