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●桐生悠々「憂国と反骨のジャーナリスト」
1918年(大正7)、富山県で勃発し全国に飛び火した「米騒動」。騒動の発端は1918年(大正7)7月上旬、富山県中新川郡東水橋町の女性港湾労働者による「当地の米価が暴騰するのは米を他の地方に移出するからだ」との積み出し反対行動に始まり、同年7月23日同県下新川郡魚津町の漁師の妻など主に女性による米倉庫での積み出し阻止に警察が出動し解散させたことに始まる。時の政府はこれが全国に波及するのは報道する新聞が悪いと同年8月14日「米騒動報道禁止」命令を通達。8月16日新愛知社説にて「新聞紙の食糧攻め、起てよ全国の新聞紙!」と言論の自由、寺内内閣の無能ぶりを批判、名古屋新聞始め東京・関西の報道機関を巻き込む一大キャンペーンとなり1918年(大正7)9月21日寺内内閣を総辞職に追い込む。悠々はその後再び信濃毎日新聞主筆に復職した。 1931年(昭和6)9月18日、中華民国遼寧省瀋陽市郊外柳条湖付近で日本軍による南満州鉄道の線路爆破事件(柳条湖事件)に端を発した満州事変では、当時主筆を務めていた信濃毎日新聞において「撤兵などは以ての外」と日本軍の行動を支持し国際連盟を批判する。そして1932年(昭和7)12月19日には新聞各社132社と「満州国の独立と其の健全なる発達とは同地域を安定せしむる唯一最善の途である」とする共同宣言を支持し同紙もそれに加わる。当時の悠々は軍部及び国策に肯定的であった。 その後1933年(昭和8)軍部が挙行した軍事演習を「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」と社説にて批判するも軍及びその軍事力を否定するものではなかった。しかし戦意高揚、教化を狙った軍部、在郷軍人会などと衝突し再度信濃毎日を退社することとなった。 長野を追われた悠々は、同年暮れ新愛知時代に住み慣れた愛知県東春日井郡守山町(現名古屋市守山区廿軒家)に転居する。 軍部の圧力などで新聞活動が出来なくなった彼は、1936年(昭和11)2月26日から2月29日にかけて発生した2・26事件では「軍部よ目覚め国民の声を聴け」と軍部を強く批判する。 この頃より一層反戦思想を深めた悠々は、翌年1934年(昭和9)個人雑誌「名古屋読書会報告」(四六版188×128mm単色刷)を出版、存在しない名古屋読書会の名を借り同書を配布し活動を開始した。やがて15号から書名を「他山の石」と変更。「日本が今アメリカを敵として戦うことは無謀であり、倍旧の友情を温めるのが賢明である」とこの戦いの無謀と友好平和説くようになった。 同紙はその後彼の死を持って廃刊するまで八年間、ほぼ月二回発行された。この出版は軍部に睨まれたが、彼のペン先は衰えず既成の新聞を「大衆の意見を代表せず、政府の提灯持ちをしているのみ」と軍部発表記事をただ垂れ流している報道機関にも苦言を呈し、軍国化を憂い、反戦と自由へと邁進する。 彼の生活は本の売り上げ、カンパなどで賄なわれていたが相当苦しかったらしく、『守山町日記』1938年(昭和13)8月23日には、「この日私はいよいよ決心して洋服に下駄履きで外出した。敢えて国策線に沿う訳ではなくこの老ルンペンには靴が買えないからである。靴を修繕する費用にも窮しているからである。それでも名義上国策線に沿うていると思うと何だか心地よい。もろもろの靴を穿いたともがらを睥睨して名古屋市内を闊歩する」と記している。 同日記8月21日には、「今日は今月の第三日曜日に当たるので印刷所は公休日だ。雑誌は届けられないだろう・・・家に帰ると不思議に雑誌が届けられているので助かったと思った。妻はこれに帯封するのに忙しかった。・・・昼飯を食っているといつも来訪する勝川警察署(旧自治体警察・現愛知県警春日井警察署)の特高係が来訪した。同時に私を偵察に来たのだなと思った。」と記している。 実に全177冊中、28冊が発禁または削除処分を受けている。県・所轄の特高係そして歩いて十数分の所に位置する連隊(陸軍歩兵第33連隊本部、現陸上自衛隊守山駐屯地)の憲兵と彼の回りにはいつも偵察・尾行が行われていた。 昭和16(1941)年8月5日号「内閣改造と感情問題」を評論、県特高課に差し押さえられ廃刊の勧告を受ける。
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