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●上街道(うわかいどう)
私道である下街道に対し官道である同街道は本街道とも呼ばれ、所により小牧街道、木曽街道とも呼ばれ、名古屋方面へ行く場合は志ミ洲道(清水道)とも呼ばれた。1872年(明治5)犬山村が稲置(いなぎ)村と改称したことにより、同村より犬山城へ至る街道を稲置街道と呼び上街道全線をこの様に呼ぶ場合もある。 この道は1623年(元和9)尾張藩が拓いた公道で、名古屋城東大手門を発し清水の大門を抜け志水(清水)坂を下り東志賀、安井、成願寺(名古屋市北区)の村々を抜け矢田川を渡り庄内川「味鋺の渡し」を渡河する。渡しは秋から春の渇水期には仮橋でその他の季節は船で渡っていた。街道はそして味鋺、小牧宿、犬山(稲置村)を通り善師野宿へ。同宿を過ぎると上街道で唯一の「石拾い峠」を過ぎ、やがて木曽川沿い「土田宿」につく。 初期には木曽川左岸土田(どた)宿で中山道と合流したが、木曽川土田の渡しが河床の変化などで使用できなくなり上流部の今渡の渡しが開設されると土田は廃宿となる。その後今渡の渡し付近に伏見宿(岐阜県可児市)か開かれると同所で中山道と合流した。 現在の旧国道41号線に相当し犬山街道とも呼んだ10里8丁(約40km)途中小牧宿、善師野宿、土田宿(のち伏見宿)と三つの宿場町があり、道幅二間、五街道に準じる造りとなっていて矢田川、庄内川など大きな川には軍事的観点から橋は架けられなかった。 ※味鋺の渡しにあった道標仏は現在近くの護国院山門わきに移設され現存。 尾張藩は自藩が開設した上街道のため下街道の荷駄取り扱い禁止、武士の通行禁止など上街道救済のお触れを再三出し救済にあたり、参勤交代も同街道を指定していた。しかし下街道(善光寺街道)より中山道に至る距離はこちらの方が長いため人も物資もこの街道を敬遠、やがて宿や問屋が寂れ気味になり下街道の問屋との間で荷物の奪い合いや荷駄賃の紛争が頻繁に起こるようになった。 |
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| 清水坂(写真上段左) 志水(清水)の木戸を抜け名古屋台地の北端に位置するこの坂を下ると善師野宿石拾い峠まで坂らしい坂もなく平らな濃尾平野を北東に行く。(名古屋市東区) 御成道の辻(写真上段中) 手前から奧が上街道、左右に横切るのが御成道(おなりみち)。御成道は尾張二代藩主光友公が造営した大曽根下屋敷(現徳川園/名古屋市東区)へ通うために造られた道で大曽根西で下街道と合流した。(名古屋市北区) 下街道追分/勝川道椎樫地蔵(写真上段右) 右上街道、左細い道が下街道勝川宿へ通じた勝川道。上街道も当時はこの様な細い道であったと思われ、角の地蔵は1758年(宝暦8)当地のもの。小川庄左衛門が子の冥福を祈って建立したもので道標仏になっており「右 志ミ州道 左 かち川道」と刻まれている。(春日井市宗法町) 小牧宿南口大木戸跡(写真中段左) 小牧宿は1563年(永禄6)織田信長が開いた事を起源とし1623年(元和9)上街道開設に伴い宿場として整備された。写真右手やや広くなったここに宿場南口大木戸があり、抜けると高札場があった。(小牧市小牧) 稲置街道追分(写真中段中) 正面教会(チャペル犬山)が分岐点(追分)、左に行けば犬山へ至る稲置(犬山)街道、木曽川を越せば中山道鵜沼宿。当時犬山は幕府より遣わされた尾張藩御附家老成瀬氏の城下として賑わっていた。右へ行くのが上(木曽)街道。善師野宿、土田宿、今渡そして伏見宿で中山道と合流した。教会の植え込みの下にわずかに道標の一部が見える。 一里塚跡と馬頭観音(写真中段右) 善師野集落の外れ、石拾峠南登り口にあり「左犬山及小牧宿へ三里、正面に木曽街道一里塚旧跡、右土田宿へ二里」と刻まれている。ここを過ぎると道は徐々に薄暗い登りとなる。(愛知県犬山市善師野) 石拾峠付近(写真下段左) 森の中を緩やかに登ると大洞池へ。釣り人が見られるが農業用溜め池らしい。ここを過ぎると道は地道となり短い距離だが登りもきつくなり上(木曽)街道最大の難所であり唯一の峠、石拾峠頂上へ。この辺りの旧道は東海自然歩道の一部となっており、またこの峠が愛知県と岐阜県の県境でもある。(愛知県犬山市−岐阜県可児市) 土田宿本陣止善殿(しぜんでん)跡(写真下段中) 定かではないが宿駅としては信長時代既に存在した様で、初代尾張藩主徳川義直公が宿泊したおり、この館を止善殿と名付けたという。土田の渡しは大井戸の渡しと呼ばれ多いに繁栄したが五街道が整備されやがて木曽川の渡しが上流部に移り伏見宿が開設されると急速に衰退していった。(岐阜県可児市土田) 今渡の渡し跡(写真下段右) 当時は宿屋や茶屋が並び川湊として対岸の太田の渡し(岐阜県美濃加茂市)と共に繁栄。1901年(明治34)には川にケーブルを渡しそれを利用した岡田式渡船が運行され渡し賃は無料となったが、やや上流に1926年(大正15)2月、太田橋(延長218m、幅員6.4m)が架けられ1927年(昭和2)2月渡しは廃止された。(岐阜県可児市今渡) |
| ●塩付街道 万葉集で藻塩を焼く情景が詠われ、尾張名所図会「星崎の塩浜」で紹介されているように古来から名古屋市南区、東海市など沿海部では製塩が盛んに行われていた。 星崎七カ村(荒井・牛尾・南野・本地・笠寺・戸部・山崎各村)辺りで生産された塩は室町から江戸時代には前浜塩と呼ばれ尾張を始め遠く美濃・信濃方面へと運ばれて行った。この塩が運ばれた「塩荷付通シ」の道を「塩付街道」と呼び、「尾張q行記」では名古屋市南区呼続の富部神社を出発点としていますが、時代と共に生産地が南の南野村(現・星崎辺り、名古屋市南区)方面に移動し、今もそれらを連想する地名が各所残されている。またその起点は星神社(名古屋市南区)など各所があり特定するのは今では難しい。 街道は名古屋市南区を発し北進、瑞穂区、昭和区、千種区を経由し名古屋市東区古出来町に至り、ここから先の「塩の道」は時代により幾筋か有ったようで、そのまま北進し大曽根村(名古屋市北区)辺りから矢田川を渡り下街道(善光寺街道)又は瀬戸街道・山口街道沿いに守山区内へ。一部の道は守山城跡付近の台地の裾を縫うように守山村、金屋坊村、牛牧村と東進、龍泉寺へ至りやがては美濃・木曽へ至った道もあったと言う。 また一方古出来町の手前鍋屋上野辺りより北進、矢田川を渡河、現名鉄瀬戸線ひょうたん山駅付近を通り守山中学校南浄土院下で先の守山村から東進してきた道と合流し龍泉寺に至る道も存在したと言われる。又、古出来より東進、瀬戸へ通じた通称名古屋道(山口街道)と言われた道、また尾張旭市の「おできの神様」として信仰を集めた直会(なおらい・のうらい)神社へ至る「直会道」、これら多くの道が瀬戸方面を経由し三河山間地に塩を含む様々な物を運んで行った。 現在戸部神社北長楽寺(名古屋市南区呼続)には今も当時使用された潮汲桶・攪拌棒が残されており、当地から瀬戸までおおよそ6里半(約26q)8時間程を要し昼食は尾張旭・守山大森辺りでとっていたと言われ、大森では草鞋が「大森草鞋」として売られていた。 また馬一頭の積載限界は30貫(112s)と言われ、馬の疲労など鑑み28貫(105s)と決められ、7貫一俵として4俵28貫(105s)を一駄として熟練の馬子は一人が4頭の馬を操ったと言う。 |
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| 星宮神社(写真上左) 塩付街道起点の一つ。舒明天皇641年頃(式外社)創建と言われる古社。古代当地に製塩技術が伝えられたと言う。(名古屋市南区本星崎町) 塩付街道碑(写真上中) 一風変わった石碑が林立する丹八山公園脇に立つ「塩付街道」石碑。この辺り細い曲がりくねった道が続く。(名古屋市南区鳥山町) 東海道・塩付街道追分(写真上左) 写真奧が塩付街道起点の一つ富部神社。手前細い道を辿ると古墳上に祀られた桜神明社、左右に通る道が東海道。この付近には古い鎌倉街道もあり当時は繁華な所だったと想像される。(名古屋市南区呼続) 塩付橋(写真下左) 山崎川支流に架かる小さな橋。この付近は慶長年間岡崎より名古屋へ通じた平針街道が東西に交わる追分け。(名古屋市南区駈上・平子一) 塩付通みやみち地蔵(写真下中) 名古屋市立大学病院東北角。「右みや道、左なるみ道」と刻まれた道標仏で、当時はここを西へ折れ宮(東海道宮宿、熱田神宮)へ通じた。現在は風化した馬頭観音と共にお堂に祀られている。(名古屋市瑞穂区瑞穂町) 市道名古屋環状線古出来町交差点付近(写真下右) 塩付街道北の起点と思われる現古出来町交差点付近。ここより当時は大曽根村、矢田村、守山の各村々など経て三河や美濃そして信州と言った内陸部に塩が運ばれ、時に帰りの荷として山の産物が馬の背に揺られ運ばれた。(名古屋市東区古出来) |