●瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)

   
写真上「山田川原の風景」矢田の渡し『内津道中記』より
写真下 昭和の初めの瀬戸街道

名古屋城下より中山道に至る下街道(善光寺街道)は大曽根口の大木戸を過ぎ四ツ谷と呼ばれた辺りを通り現名古屋鉄道瀬戸線大曽根駅西口辺りに到達、瀬戸街道は同所付近で北進する下街道と別れ東進。矢田村を通り守山村、小幡村、大森村、印場村、新居村、水野村を経由し瀬戸へ至る街道。

古く街道の守山側入口の矢田川に橋はなく現矢田川橋下流辺りを徒歩で渡り、渇水期の冬・春(10月〜3月)には本流部に仮橋をかけ渡し賃を取っていた。また藩主の通行時には御船方役人により船が用意された。1872年(明治5)に木製の橋が架けられ人は三厘、馬一匹五厘、車一銭の通行料を徴集し年間70〜80円が守山村の収入となっていたが多くの人々は水量も少なく徒歩にて渡っていた。
1884年(明治17)、水谷忠厚の尽力により無料の木橋が架けられ、1914年(大正3)鉄骨橋に架け替えられた。やがて老朽化が進みやや下流に1953年(昭和28)西側が1959年(昭和34)東側と二期に分け、長さ120m、幅15mのコンクリート橋「矢田川橋」が完成した。現在は矢田川橋上流側に沿うように名古屋鉄道瀬戸線矢田川橋梁、下流700m程にJR中央線(西線)矢田川橋梁があり、明治時代の矢田川橋の親柱が同所より数百メートル下流左岸に移設され残されている。
当時道幅は守山村三間(5.4m)小幡村八間(14.4m)と各地バラバラであった。また江戸時代瀬戸の陶磁器を名古屋城下へ輸送するため多くの物資が行交い、瀬戸物運送の荷車には「御蔵物瀬戸焼」と木札を掲げ通行した。その他、信州や東濃から陶磁器・煙草・木地椀・紙など、名古屋や海浜部からは塩・茶・魚・醤油などが運ばれ、守山志段味方面で亜炭の採掘が行われた頃には亜炭なども運ばれ、守山の産業を支えた主要道路であった。

江戸時代、街道(海道)の名はその行き先など、時代・場所により色々呼ばれ、現守山区の一部、尾張旭市、瀬戸市の一部を管理した水野村の水野代官所へ多くの人々が行き交い水野街道と呼ばれ、また東谷山麓(守山区)を経由し初代尾張藩主徳川義直公の墓所定光寺(瀬戸市定光寺町)へ墓参の人々が行き交い御成道とも呼ばれた。
所により名古屋南部で生産された塩を運ぶための塩付街道の延長として行く先の名を冠して信州飯田街道・岩村街道・信濃街道とも呼ばれ、1888年(明治21)第三師団(名古屋)、1897年(明治30)歩兵第33連隊が守山小幡に移転し小幡ヶ原に演習場が拓かれ軍隊の往来が多くなると一部では兵隊道とも呼ばれた。
水野代官所:瀬戸市中水野町(旧中水野村鳥林)に明治維新になるまで、水野代官所が置かれ、愛知・春日井郡の大部分と美濃国の一部を含む111ヵ村、6万石余を統括していた。

瀬戸街道は瀬戸・大曽根間の通称で、その呼び名が定着したのは明治期になってからという。また本街道ではないため本陣・脇本陣などは置かれていなかった。
藩政時代以前改修整備が行われるまでは人家もまばらな寒村を貫く道で、1905年(明治38)瀬戸電気鉄道(現在の名古屋鉄道瀬戸線)が瀬戸街道に沿うように敷設され、1911年(明治44)名古屋堀川まで全通。その後近世に入り瀬戸街道沿線には旧守山市の主要施設が沿線に集中し人家や商店が軒を連ね、交通量も飛躍的に増大、渋滞の常習地帯となった。
1885年(明治18)、従来曲くねり道幅もまちまちだった街道の改修に着手し、大正時代より順次改修工事がなされ、1915年(大正4)に長さ127m、幅員4mの鋼製橋桁の土橋が架けられ、1920年(大正9)4月には県道名古屋瀬戸線となり、1926年(昭和元)から守山地区の耕地整理の一環として、瀬戸街道の直線化が計られ矢田川橋から順次北へ進められた。しかし渋滞は恒久的なものとなりそれを解消するため瀬戸街道一本南にほぼ並行して千代田街道が造られたが、やはり増える車の量は捌ききれず千代田街道も含め日常的に朝夕の渋滞は解消されていない。
2019年(令和元)10月、文化庁選定「歴史の道100選」に瀬戸街道の愛知県瀬戸市、雨沢峠〜坂瀬坂、上品野町、品野町付近が「信州飯田街道」として選ばれた。

     
写真左 区内大森地区の瀬戸街
写真中 
矢田川橋北東のこの辺りの瀬戸街道は古くは稲富山と言い、尾張藩の鉄砲指南役稲富家の領地があり、丘状をなしていたが戦後の改修工事により緩やかな坂とカーブになった。
写真右 
街道は矢田川を越し最初の枡形(遠見遮断/前方遮断)を成していた。枡形遺構とは直線的街道の防御性を高めるために直線部分をカギ型に曲げたもので、城郭の入り口などにも見られ、区内には他に大森地区の旧瀬戸街道にも見られる。

矢田川橋北、現瀬戸街道は右に緩やかにカーブするが、旧瀬戸街道は北に直進し明治時代に創業した
造り酒屋水甚酒店(昭和10年位まで創業していた)前を通り数十メートル行き枡形を直角に右折東進し、また過ぐに左折北進し小幡・大森方面に至った。この枡形手前には吉利支丹制札(高札)が掲げられ、その向かい(西側)には直進大永寺に至るため大永寺道の道標があり、その先には明治から大正時代に賑わった芝居小屋東栄座あった。
東栄座:守山白山神社北東の坂の上に明治40年代から大正の初めまで有った芝居小屋。活動写真なども上映され大いに賑わっていた。また下街道庄内川を越した勝川には明治より昭和の初めまで「新守座(新森座)」があり長く賑わったという。

     
写真左 取り壊された民家(旧水甚酒店)前のY字路に建つ天王社、右が現在の瀬戸街道、左が旧瀬戸街道、旧道は数十メートルほど行くと直角に曲がり現瀬戸街道に合流する。取り壊された民家手前には古くは茅葺き屋根の民家があり旧道の面影を残していたが取り壊された。
写真中 街道沿いにポツリと残された名残の松。(小幡中一地内)
写真右 瀬戸街道一里塚(尾張旭市東印場町一里山)。江戸時代大森寺(守山区大森)の寺領で、門前より一里のこの地に塚が造られた。(現在の石碑は1939年(昭和14)に再建された物。実測では3km程) 

●上街道(うわかいどう)

私道である下街道に対し官道である同街道は本街道とも呼ばれ、所により小牧街道、木曽街道とも呼ばれ、名古屋方面へ行く場合は志ミ洲道(清水道)とも呼ばれた。1872年(明治5)犬山村が稲置(いなぎ)村と改称したことにより、同村より犬山城へ至る街道を稲置街道と呼び上街道全線をこの様に呼ぶ場合もある。
この道は1623年(元和9)尾張藩が拓いた公道で、名古屋城東大手門を発し清水の大門を抜け志水(清水)坂を下り東志賀、安井、成願寺(名古屋市北区)の村々を抜け矢田川を渡り庄内川「味鋺の渡し」を渡河する。渡しは秋から春の渇水期には仮橋でその他の季節は船で渡っていた。街道はそして味鋺、小牧宿、犬山(稲置村)を通り善師野宿へ。同宿を過ぎると上街道で唯一の「石拾い峠」を過ぎ、やがて木曽川沿い「土田宿」につく。
初期には木曽川左岸土田(どた)宿で中山道と合流したが、木曽川土田の渡しが河床の変化などで使用できなくなり上流部の今渡の渡しが開設されると土田は廃宿となる。その後今渡の渡し付近に伏見宿(岐阜県可児市)か開かれると同所で中山道と合流した。
現在の旧国道41号線に相当し犬山街道とも呼んだ10里8丁(約40km)途中小牧宿、善師野宿、土田宿(のち伏見宿)と三つの宿場町があり、道幅二間、五街道に準じる造りとなっていて矢田川、庄内川など大きな川には軍事的観点から橋は架けられなかった。
※味鋺の渡しにあった道標仏は現在近くの護国院山門わきに移設され現存。

尾張藩は自藩が開設した上街道のため下街道の荷駄取り扱い禁止、武士の通行禁止など上街道救済のお触れを再三出し救済にあたり、参勤交代も同街道を指定していた。しかし下街道(善光寺街道)より中山道に至る距離はこちらの方が長いため人も物資もこの街道を敬遠、やがて宿や問屋が寂れ気味になり下街道の問屋との間で荷物の奪い合いや荷駄賃の紛争が頻繁に起こるようになった。

     
     
     

清水坂(写真上段左)
志水(清水)の木戸を抜け名古屋台地の北端に位置するこの坂を下ると善師野宿石拾い峠まで坂らしい坂もなく平らな濃尾平野を北東に行く。(名古屋市東区)
御成道の辻(写真上段中)
手前から奧が上街道、左右に横切るのが御成道(おなりみち)。御成道は尾張二代藩主光友公が造営した大曽根下屋敷(現徳川園/名古屋市東区)へ通うために造られた道で大曽根西で下街道と合流した。(名古屋市北区)
下街道追分/勝川道椎樫地蔵(写真上段右)
右上街道、左細い道が下街道勝川宿へ通じた勝川道。上街道も当時はこの様な細い道であったと思われ、角の地蔵は1758年(宝暦8)当地のもの。小川庄左衛門が子の冥福を祈って建立したもので道標仏になっており「右 志ミ州道 左 かち川道」と刻まれている。(春日井市宗法町)

小牧宿南口大木戸跡(写真中段左)
小牧宿は1563年(永禄6)織田信長が開いた事を起源とし1623年(元和9)上街道開設に伴い宿場として整備された。写真右手やや広くなったここに宿場南口大木戸があり、抜けると高札場があった。(小牧市小牧)
稲置街道追分(写真中段中)
正面教会(チャペル犬山)が分岐点(追分)、左に行けば犬山へ至る稲置(犬山)街道、木曽川を越せば中山道鵜沼宿。当時犬山は幕府より遣わされた尾張藩御附家老成瀬氏の城下として賑わっていた。右へ行くのが上(木曽)街道。善師野宿、土田宿、今渡そして伏見宿で中山道と合流した。教会の植え込みの下にわずかに道標の一部が見える。
一里塚跡と馬頭観音(写真中段右)
善師野集落の外れ、石拾峠南登り口にあり「左犬山及小牧宿へ三里、正面に木曽街道一里塚旧跡、右土田宿へ二里」と刻まれている。ここを過ぎると道は徐々に薄暗い登りとなる。(愛知県犬山市善師野)

石拾峠付近(写真下段左)
森の中を緩やかに登ると大洞池へ。釣り人が見られるが農業用溜め池らしい。ここを過ぎると道は地道となり短い距離だが登りもきつくなり上(木曽)街道最大の難所であり唯一の峠、石拾峠頂上へ。この辺りの旧道は東海自然歩道の一部となっており、またこの峠が愛知県と岐阜県の県境でもある。(愛知県犬山市−岐阜県可児市)
土田宿本陣止善殿(しぜんでん)跡(写真下段中)
定かではないが宿駅としては信長時代既に存在した様で、初代尾張藩主徳川義直公が宿泊したおり、この館を止善殿と名付けたという。土田の渡しは大井戸の渡しと呼ばれ多いに繁栄したが五街道が整備されやがて木曽川の渡しが上流部に移り伏見宿が開設されると急速に衰退していった。(岐阜県可児市土田)
今渡の渡し跡(写真下段右)
当時は宿屋や茶屋が並び川湊として対岸の太田の渡し(岐阜県美濃加茂市)と共に繁栄。1901年(明治34)には川にケーブルを渡しそれを利用した岡田式渡船が運行され渡し賃は無料となったが、やや上流に1926年(大正15)2月、太田橋(延長218m、幅員6.4m)が架けられ1927年(昭和2)2月渡しは廃止された。(岐阜県可児市今渡)

●塩付街道
万葉集で藻塩を焼く情景が詠われ、尾張名所図会「星崎の塩浜」で紹介されているように古来から名古屋市南区、東海市など沿海部では製塩が盛んに行われていた。
星崎七カ村(荒井・牛尾・南野・本地・笠寺・戸部・山崎各村)辺りで生産された塩は室町から江戸時代には前浜塩と呼ばれ尾張を始め遠く美濃・信濃方面へと運ばれて行った。この塩が運ばれた「塩荷付通シ」の道を「塩付街道」と呼び、「尾張q行記」では名古屋市南区呼続の富部神社を出発点としていますが、時代と共に生産地が南の南野村(現・星崎辺り、名古屋市南区)方面に移動し、今もそれらを連想する地名が各所残されている。またその起点は星神社(名古屋市南区)など各所があり特定するのは今では難しい。
街道は名古屋市南区を発し北進、瑞穂区、昭和区、千種区を経由し名古屋市東区古出来町に至り、ここから先の「塩の道」は時代により幾筋か有ったようで、そのまま北進し大曽根村(名古屋市北区)辺りから矢田川を渡り下街道(善光寺街道)又は瀬戸街道・山口街道沿いに守山区内へ。一部の道は守山城跡付近の台地の裾を縫うように守山村、金屋坊村、牛牧村と東進、龍泉寺へ至りやがては美濃・木曽へ至った道もあったと言う。
また一方古出来町の手前鍋屋上野辺りより北進、矢田川を渡河、現名鉄瀬戸線ひょうたん山駅付近を通り守山中学校南浄土院下で先の守山村から東進してきた道と合流し龍泉寺に至る道も存在したと言われる。又、古出来より東進、瀬戸へ通じた通称名古屋道(山口街道)と言われた道、また尾張旭市の「おできの神様」として信仰を集めた直会(なおらい・のうらい)神社へ至る「直会道」、これら多くの道が瀬戸方面を経由し三河山間地に塩を含む様々な物を運んで行った。
現在戸部神社北長楽寺(名古屋市南区呼続)には今も当時使用された潮汲桶・攪拌棒が残されており、当地から瀬戸までおおよそ6里半(約26q)8時間程を要し昼食は尾張旭・守山大森辺りでとっていたと言われ、大森では草鞋が「大森草鞋」として売られていた。
また馬一頭の積載限界は30貫(112s)と言われ、馬の疲労など鑑み28貫(105s)と決められ、7貫一俵として4俵28貫(105s)を一駄として熟練の馬子は一人が4頭の馬を操ったと言う。

     
     

星宮神社(写真上左)
塩付街道起点の一つ。舒明天皇641年頃(式外社)創建と言われる古社。古代当地に製塩技術が伝えられたと言う。(名古屋市南区本星崎町)
塩付街道碑(写真上中)
一風変わった石碑が林立する丹八山公園脇に立つ「塩付街道」石碑。この辺り細い曲がりくねった道が続く。(名古屋市南区鳥山町)
東海道・塩付街道追分(写真上左)
写真奧が塩付街道起点の一つ富部神社。手前細い道を辿ると古墳上に祀られた桜神明社、左右に通る道が東海道。この付近には古い鎌倉街道もあり当時は繁華な所だったと想像される。(名古屋市南区呼続)

塩付橋(写真下左)
山崎川支流に架かる小さな橋。この付近は慶長年間岡崎より名古屋へ通じた平針街道が東西に交わる追分け。(名古屋市南区駈上・平子一)
付通みやみち地蔵(写真下中)
名古屋市立大学病院東北角。「右みや道、左なるみ道」と刻まれた道標仏で、当時はここを西へ折れ宮(東海道宮宿、熱田神宮)へ通じた。現在は風化した馬頭観音と共にお堂に祀られている。(名古屋市瑞穂区瑞穂町)
市道名古屋環状線古出来町交差点付近(写真下右)
塩付街道北の起点と思われる現古出来町交差点付近。ここより当時は大曽根村、矢田村、守山の各村々など経て三河や美濃そして信州と言った内陸部に塩が運ばれ、時に帰りの荷として山の産物が馬の背に揺られ運ばれた。(名古屋市東区古出来)

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