●御土居下同心と廿軒家の隠れ同心

満水の掘に緑と金鯱が映える名古屋城。
(名古屋市中区)


すっかり住宅化した中にも所々古い家並
みが残っている。

名古屋城は関ヶ原の戦い後の豊臣方に備え、慶長15年(1610)2月、徳川家康の命により加藤肥後守清正ら西国20余家により着工され、同年12月、一応の完成。突貫工事につぐ工事で当時「名古屋普請は迷惑千万(至極)」と陰口をささやかれたと言う。
その後も工事は続き慶長17年(1612)末頃完成、
家康の九男義直(尾張藩初代藩主)の居城となった。
当時駿府城(静岡県)を居城としていた家康と大阪城を居とした豊臣方。名古屋城はちょうどその中間地点、もし豊臣方が蜂起し東上しても木曽・長良・揖斐の三川の渡河に手間取っている間に家康は名古屋城に入城できると言う地の利を計算に入れての築城とか。四代藩主吉通の遺訓書「円覚院様御伝十五箇条」には尾張藩が万一の時には
木曽に立てこもり時期を待てと言っている。
また幕府八代将軍吉宗と尾張藩七代藩主宗春の確執は深く、尾張藩に謀反の疑い有りと幕府は多数の隠密を尾張藩に送り込み、宗春もこれら隠密を探索する隠密組織「隠密御用」を身辺警護するお手筒組内に組織した。
時代とともに尾張有事の図式は西の備えから幕府対尾張と変化して行き、これら表の組織と全く異なった危急時藩主脱出を主目的とし、忍駕篭を軽々担いだり、潜水の名手等の異能集団を擁した一群の半農を装った隠密武士集団「御側組御土居下同心(御土居下同心)」16家16人、後に18家18人が組織された。
現在当時の組屋敷を偲ぶ物は何もなく跡地の名古屋市中区三の丸住宅の脇に
名古屋市が立てた案内板(写真左)が有るのみ。
脱出経路は大曽根下屋敷→勝川→定光寺→そして木曽が表道であったに対し、秘密裏に信州路など他にも設けられそれら中継地点には代々家老成瀬家が配した帰農を装った武士集団を住まわせていた。
そのため区内には成瀬家配下の在地同心11名、その他周辺には60名の中間がおり、幕末には20人の同心が居がおり、それに由来し地名として「廿軒家」(名古屋市守山区廿軒家、長栄地内)がある。
この地は表街道が木曽へ行くのに対し、大曽根下屋敷を経て水野街道(現瀬戸街道)を通り木曽又は信州へ脱出する備えではなかったかと言われている。小幡廿軒家同心の結束は堅く幕末明治維新では主家成瀬家に従い長州・鳥羽伏見と転戦した。


御土居下同心(おどいしたどうしん)屋敷跡
この地は城の鶉口(うずらぐち・城内からの非常脱出口)に当たるところで、尾張藩はここに同心屋敷を置き、譜代の同心を住まわせていた。彼らは御側組(おそばぐみ)と称し、表向きは藩主の側近として仕えていたが、万一非常の場合は、藩主を護衛して木曽路に脱出させるという極秘の使命が課せられていた。
組員は十八名に限られ、世襲であって、世間との交渉はなかった。
藩主の側近であったため高度の教養を積み、文武の優れた逸材が多かった。
 名古屋市教育委員会

廿軒家神明社

【廿軒家神明社由緒】より
廿軒家は徳川家康公の重臣尾州家義直公の附家老犬山城主成瀬隼人正正成が当地区に支配下の武家屋敷二十軒を建築させ、地域の開発と管理に当たらせたことに由来する。当時の武家等は元和元年(1615年)所領山林内の一部に産土神として当神明社を創建し、常に尊崇信仰したとの言い伝えである。
神紋として成瀬家の家紋である「丸にかたばみ」を当社の神紋として本殿左右に掲げている。



社務所南に現存する郷倉
当地瀬戸街道交差点付近(樋口家西)にあった物でゴングラと呼び親しまれていたが終戦後ここに移築された。(改変が著しく当時の面影はない。)

奉安殿(境内西秋葉社)
旧守山国民高等学校、現守山中学校にあった奉安殿。

奉安殿(廿軒家神明社)は奉安殿と黒田毅の頁へ

名古屋城ニノ丸埋門(うずみもん)
本丸東、ニノ丸の境辺り空堀に面した埋門、写真赤丸部分。
土塀沿、目隠しの木々の裏に門が有り、石段を降り途中から緊急時に降ろされる梯子を伝い空堀へ降りる。そして水堀部分では隠してある小舟に乗り対岸御深井丸方面へ。その時の為に組織された「御土居下同心」は船を操り、忍駕籠を走らせ一路城から遠ざかることを任とした。

現在土塀、門などは取り払われ石段は降り口の一部を残し埋められ埋門跡の碑が建てられている。(写真右)
※名古屋城ニノ丸絵図
 名古屋城管理事務所所蔵  嘉永年間(1848-1854)作 部分