●白山林の戦(小牧長久手の戦・前哨戦)


天正12(1584)年4月8日夜10時頃、池田恒興(信輝)・森長可(ながよし)隊、堀秀政隊、三好秀次(秀吉の甥、後の関白秀次)隊ら西軍は小牧山に出陣して留守の徳川家康の本拠地三河岡崎城を攻めるべく奇襲戦法である「中入作戦(三河中入作戦)」を開始。庄内川「大日の渡し」「野田の渡し」「松河戸(川村)の渡し」を順次渡河南進した。
密偵、農民らの情報を得た家康隊も直ちに西軍の渡河地点下流の庄内川「勝川の渡し」を渡り夜陰に紛れ小幡城に入城。ここで東軍家康隊は二分され徳川家康・織田信雄隊は西軍本隊池田恒興・森長可隊を追走し矢田川稲葉(現愛知県尾張旭市)辺りを渡る。
一方、大須賀康高・岡部長盛隊、榊原康政・本多忠重隊、水野忠重・丹羽氏次ら東軍別働隊は西軍しんがりの矢田川庄中(現愛知県尾張旭市)辺りを渡河した三好秀次隊を追走、庄中下流小幡(現名古屋市守山区)辺りの矢田川を渡河した。(イラスト参照)

4月9日午前5時頃、矢田川南に位置する丘「白山林(はくさんばやし)」(愛知県尾張旭市及び現市営本地荘西方一帯<名古屋市守山区>)にて三好秀次隊は朝食のため休息、縦に長く軍を展開していた。追走した東軍大須賀康高・岡部長盛隊はこれを発見、まず林間に紛れ北東側面より鉄砲の一斉射撃。続いて背後から榊原康政・本多忠重隊が切り込む、そして南西側面より西軍水野忠重・丹羽氏次隊も奇襲に加わる。

不意を突かれた西軍三好秀次隊は大混乱を起こし、8,000名の大部隊も後方補給隊の色合いが濃く人足的兵隊は右往左往するばかりで大将三好秀次は17歳の若者、自分の馬も見失う有様。部下の可児才蔵に馬を借りようとするが戦場にて馬を貸せとは何事と断られ、同じく部下の木下勘解由利匡(かげゆとしただ)より借用、命からがら先行し既に香流川を渡り4km余り先、長久手桧ヶ根辺りに進軍していた堀秀政に援軍を要請。しかしここでもその不甲斐なさを詰問される有様。
白山林の戦いはわずか1時間余り、午前5時頃には西軍三好秀次隊は総崩れとなり長久手方面に敗走して決着した。この戦いが引き金になり東西両軍は長久手の戦いへとなだれ込んでいた。
やがて午後に入り長久手の戦いでは池田恒興(信輝)とその長男元助、森長可らは戦死、戦いも西軍の敗戦にて終了した。(軍勢については諸説有る。)

現在、白山林一帯は愛知県尾張旭市と名古屋市守山区が入り組んだ境界辺りで矢田川方面からは小高い丘を見上げる感じ、整地された高台には名古屋市営本地が丘住宅の団地群が林立しているが北の斜面には当時を彷彿させる雑木林がわずかに残っている。

※戦いの中、秀次に馬の借用を拒否した可児才蔵はその後福島政則に700石にて召し抱えられ関ヶ原の合戦では東軍の将として大活躍。一方馬を貸した木下勘解由は白山林にて討ち死にした。
※家康と秀吉はその後局地戦はあったものの本格的両雄の衝突はなく、同年11月長島城にて織田信雄と秀吉との和睦がなり、信雄を援護すると言う大義名分を失った家康は軍を引く事となった。

本地ヶ原神社(愛知県尾張旭市南新町中畑)の兜神社に掲げられている、史蹟「兜神社」と「白山林の合戦」の案内板より(原文のママ)
白山林の合戦は、天正12年(1584)4月9日早暁、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康が共に天下統一を狙い戦いました。
豊臣方総大将三好秀次孫七は大軍を率い白山林で朝食中、家康と織田信雄の連合軍に急襲されて総崩れとなり、一説では数百人が討ち死にし秀次は配下の馬で逃げたといわれています。
戦場は「白山神社」(本地ヶ原神社の前身)の言い伝えの記述から、現在の緑町、長坂町、南・北本地ヶ原町、上の山町一帯と推定され、小高い丘、松林のある処といわれています。
兜神社はこれら武将を祀ると共に、「小牧・長久手の戦い」の歴史上の史蹟となっています。


写真 市営本地荘(写真中央の団地群)一帯は標高約65m程の微高地で「白山林」の丘陵は約16m程の高低差のある丘を成している。
現在丘一帯は団地となっており、周辺は愛知県尾張旭市、その中に有りこの本地が丘の丘陵のみが守山区となっている。丘の北面に雑木林が帯状に残っている。




●リンク
名古屋市博物館