上志段味地区の古墳
※遺跡位置は「守山区遺跡分布図」の頁に有ります。

歴史の里公園

●志段味大塚古墳(国史跡)・大久手池周辺古墳群
岐阜県南東部の東濃地区(多治見市、土岐市辺り)を流れる庄内川が渓谷を抜け平野部に出るその出入り口にあたる標高49~50m辺りの中位河岸段丘上にある。
一帯の志段味大塚古墳・大久手池周辺古墳群は古墳時代中頃(五世紀中頃~六世紀)に同型の帆立貝式古墳が集中的に多く作られ、また周辺には円墳(方墳)を作った集団がありその従属性なども考えられる。

志段味大塚古墳(1号墳)は全長約51m(周濠部を含め約62m)、後円部径40m、後円部高約7m、前方部高約1.5m、比高差約5.5m、前方部長15.5m、幅15m、二段築造の帆立貝式古墳、五世紀後半、古墳時代中期後半の築造と考えられる。
1923年(大正12)京都大学考古学教室の手により発掘調査され、後円部中央粘土槨辺りから五鈴鏡(五鈴渦文鏡)、武具、馬具、鉄鏃、金銅装帯金具、多量の挂甲小札(鉄板を革紐で結んで鎧状武具を作る)など大陸文化を連想させる多くの副葬品の出土があり、2005年(平成17)の発掘調査では葺石やその転落石に混じり周濠より象形埴輪(水鳥頭部・鶏形)の発掘があり、北西の造り出し部より須恵器類、第二埋葬施設より漆塗りの革盾、鉄釘もあり、大陸、畿内、在地と多様な文化の混合が考えられる。

※五鈴鏡:鏡には大陸で作られ持ち込まれた舶戴鏡とこれを模し国内で作られた彷製鏡があり五鈴鏡、周辺に七つの鈴を付けた七鈴鏡は国内産の鏡と考えられている。出土品は現在京都大学に保管されている。


 
写真上段左
埴輪列も復元された全景
写真中段左
墳頂部にある地下埋葬施設模型、粘土槨/木棺直葬を現す
写真下段左
復元前、こんな感じで盛り土された。(前庭部より)
写真上段中
テラス部分と復元埴輪列
写真中段中 東側の見学用階段
写真下段中 復元前
写真上段右
後円部墳頂より前庭部を見下ろす

写真中段右
復元工事に際して見学者が葺石に記念に記したメッセージ
写真下段右 復元前(墳頂より)

1923年(大正12)当時の京都帝国大学梅原末治氏が発掘調査、現在同大学博物館に保存されている出土品。※開館記念中のみ展示。
左:木心鉄板張輪鐙・五鈴杏葉・三環鈴・鈴付楕円形鏡板
右:鉄鏃・小札・帯金具・兜・五鈴鏡
志段味古墳群ミュージアムより

破壊された複製埴輪

2018年(平成30)2月9日夜から10日朝にかけ復元された古墳上の複製埴輪500個のうち30個が何者かにより破壊された。埴輪は硬質陶器で復元されておりかなりの力を加えなければ自然で壊れるものではなく、大きな物では高さ約85cmあり悪意ある破壊行為である。被害総額は約615万円に上り市は愛知県警に被害届を提出した。また2025年(令和7)春にも一基の破損が認められた。


 
大塚2号墳
大塚3号墳の東数10mにあり、道路に削り取られた詳細不明の小型円墳。埋葬施設から木棺が出土、また埴輪・須恵器が出土し、築造は五世紀末から六世紀初頭、古墳時代中期末から後期始めと考えられている。
 
 
 大塚3号墳
志段味大塚古墳の南数10mにある径19mの円墳。幅4~5mの船底型断面の一重の周濠が認められたが、埴輪・葺石の存在は認められず、築造など不明な部分が多いが、周辺古墳と同時期の5世紀後半頃と思われる。
 大久手池周辺古墳群は古墳時代中頃の3基の帆立貝式古墳と4基の円墳又は方墳の現存7基の古墳からなる。※別に未確認の数基の古墳がある。
 
 
東大久手古墳
全長39m、後円部27m、前方部12m、馬蹄形の周濠を持つ五世紀末(古墳時代中期末)に築造された帆立貝式古墳。
現況墳丘部が大きく削られ扁平であるが、築造当時は2段築造であったと思われる。周濠が確認され前後部との境に列石、円筒埴輪が認められ、2008年(平成20)7月の発掘では、上部が風化欠損しているものの径20~30cm、高さ40cm程(現存20~25cm)の円筒埴輪が築造当時の直立した状態で5ヶ所計14基発掘され、現在それらは保存のため埋め戻された。また南側くびれ部分では須恵器を用いた祭祀が行われた形跡がある。時代の古い西大久手古墳と比べ出土物などから在地性がやや強いと研究者はいう。
写真右:かつての東大久手古墳


西大久手古墳
現況封土はなくなっているが2段築造、全長37m、後円部径26m、前方部長さ13m、周濠部を含めた全長59mの五世紀中頃(古墳時代中期後半)、志段味古墳群の帆立貝式古墳では最初の築造と思われる。志段味大塚・大久手古墳群中2番目の規模を持ち、東大久手古墳とほぼ同型と思われ、同一の設計図のような物があったと考えられている。
2005年(平成17)より続いた発掘調査で前庭部周濠よりこの地方では3例目、東日本では最古級五世紀中頃の馬型埴輪が出土、墳丘の周辺部からは川原石の葺き石、鶏形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪が出土、2008年(平成20)年7月の発掘では縦横7.5cm(未発掘部分を含めると全長70cm程)の巫女を思わせる人物埴輪が出土、大和王権が所在した畿内地方以外では最古であると共に同系のものであり中央と同地の結び付き、また古代尾張氏発祥との関連も考えられ貴重な出土物として注目されている。出土物などから東大久手古墳に先行して築造されたと考えられる。


上段左 現況
上段中 かつて封土はなく後円部より前方部への周濠部分がよく見て取れた
上段右 かつては葺石などが散乱していた
下段左 写真中央周濠より馬型埴輪が出土、右が発掘された前方部角部分
下段中 馬形埴輪と同じく出土した鶏形埴輪 志段味古墳群ミュージアムより
下段右 雨上がりの西大久手古墳、周濠部分に水が溜まり造営された当時を彷彿とさせる
大久手3号墳
発掘時ほぼ墳丘は削り取られており、従来円墳と思われていたが、2005年(平成17)より続いた大久手池周辺古墳群発掘調査により、南側に周濠の一部が認められたことより、志段味古墳群では唯一の周濠を持った一辺14mの方墳であると認められた。
墳丘裾部分より器台、高坏、甕等の須恵器が発掘されたが埴輪の存在はなく、築造は五世紀後半(古墳時代中期後半)と考えられる。復元された墳丘には須恵器が添えられている。


テラス部分と復元埴輪列
写真中段中 東側の見学用階段
写真下段中 復元前 写真上段右
後円部墳頂より前庭部を見下ろす
写真中段右
志段味大塚古墳の復元用葺き石に見学者が贈ったメッセージ
写真下段左 復元前
:現況 :発掘中の大久手3号墳 :発掘中の大久手3号墳と後方西大久手古墳

大久手4号墳
発掘調査時すでに改変が著しく墳形の確認は出来なかった。出土物には須恵器や埴輪が出土したものの、盛り土部分は江戸時代の物と判明。
古墳ではなく江戸時代またはそれ以前の塚であった可能性がある。

大久手5号墳
大久手池の築堤により残存部分は西半分位であるが墳長一段目38m、幅3m程一重の馬蹄形周濠が認められ、二段築造五世紀後半(古墳時代中期後半)の帆立貝式古墳。後円部墳丘テラス面にて埴輪列が確認され、出土された円筒埴輪は製法その他志段味大塚古墳の物と類似すると言う。
志段味大塚古墳、東大久手古墳について三番目に築造された帆立貝式古墳と思われ、大久手池に多くの部分が削られ詳細不明の部分が多いが東・西大久手古墳と相似した古墳と考えられている


東谷山を向いて並ぶ帆立貝式古墳 名古屋市教育委員会設置解説版より
四世紀には東谷山(標高198.3m)中腹に中社古墳(前方後円墳)など三つの古墳が築かれ、それからおよそ百年後の五世紀後半、長さ40m弱の帆立貝式古墳の西大久手古墳、大久手5号墳・東大久手古墳が、東谷山の方向を向いていて一列に並ぶように造られました。前代の古墳とのつながりを見せるように計画的に古墳が配置されたと考えられます。
※北から大久手5号墳・東大久手古墳、西大久手古墳
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勝手塚古墳・志段味大塚古墳群・大久手古墳群は墳丘主軸を北東の白鳥塚古墳に向ける墳長50m級帆立貝式古墳。それよりやや東に東谷山方面に主軸を持つ40m級の帆立貝式古墳の大久手5号墳・東大久手古墳・西大久手古墳と二つのグループに分ける事が出来るといい、これら5基の帆立貝式古墳の築造順は西大久手古墳-志段味大塚古墳-大久手5号墳-東大久手古墳-勝手塚古墳の順といい、これら5基の古墳の周辺に大久手3号墳(方墳・五世紀後半)、大久手4号墳(不明)、大塚2号墳(六世紀初頭)、大塚3号墳(五世紀後半)の4基の古墳がある。

一帯の古墳に使われた埴輪はどこで焼かれたか
志段味地区から南に直線約5km、尾張旭市(愛知県尾張旭市)の城山古窯で焼かれたのではないかと思われる。同古窯一帯の尾張旭市は縄文~弥生時代の集落遺跡が発掘され、古墳時代には須恵器の生産が始まり、近隣の瀬戸市・春日井市(愛知県)の古墳への埴輪生産も行われたと言う。


志段味地区の河岸段丘と古墳群
志段味地区は庄内川が形成した上・中・下の三段の河岸段丘上にあり白鳥塚古墳・志段味大塚古墳は中位段丘面にあり低位段丘面には勝手塚古墳・東谷山白鳥古墳がある。
当時の人々はこの段丘の見晴らしのいい場所に古墳を築造し、これはまた古墳の存在を知らしめるには恰好の場所でもあった。
写真は志段味大塚古墳西に広がる中位河岸段丘面。
※河岸段丘 川が川底や両岸を削りまた上流から運ばれてきた石や砂が堆積して平らな面ができます。その平らな面が地殻変動で隆起して地表で再び堆積・浸食・隆起が繰り返され出来る段丘。

●寺山1・2号墳
白鳥塚古墳の南西直線約200m、標高50m程に位置する寺山1・2号墳。
寺山1号墳は石拾池を水源とする小さな大矢川に面した径25m、高3.5m程の円墳。過去土取工事の際西側より須恵器と直刀が掘り出されたと言うが詳細は不明。
寺山2号墳は1号墳の北西80m程、既に埋め立てられた山田池畔にあり区画整理事業内に位置するため近年発掘調査がされた。
従来径22m、高2.5m程の円墳と思われてきたが前方部が確認され、後円部径22m、前方部くびれ部幅10m、高2.5m、縮尺的に大久手池周辺古墳群と同様帆立貝式古墳と考えられている。遺物等は過去の調査同様葺石が確認されたにとどまり、北東に主軸を持つ志段味大塚古墳、東西に主軸を持つ東・西大久手古墳に比べそれらに直交する北北西に主軸を持っている。古墳形状・立地などから大久手池周辺古墳群と同系の勢力のものと考えられている。


帆立貝式古墳 円形の墳丘に小さな方形の突出部がついたもので、前方部の長さが後円部径の4/1以上、2/1未満の物を「帆立貝式古墳」。同4/1未満の物を「造出し付き円墳」といい、その名の通り帆立貝のような形をしているのが特徴だが二つの形態の差の判断は難しい。
同形式の古墳は四世紀古墳時代前期より六世紀古墳時代後期まで全国的に作られたが、その中心は五世紀から六世紀前半、大和の地において巨大古墳が作られた頃で、地方において王権によりその造墓活動が強く規制され、その中から発生した墳形とも言われ、被葬者は王権に繋がる武人や地方の軍事的首長が多いと言われているが、独特な形状は前方後円墳とは異なる発展を遂げたと思われ、古墳時代の祭祀の変化を考える上で重要な古墳形状である。